<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
修行者が注意しなければならない事は、「修行の為」と称して、家事や雑事を早く終わらせようとしてはならない事である。
この種の「修行しなければならない」という貪欲は、一種の煩悩である。というのも、修行者は、法を見たい(+と焦っている)からである。
日々の仕事は、苦を体験するよい機会を提供してくれる。もし修行者が、定に偏りすぎている場合、日常の作業は、偏った定を取り除くよい機会になる。
4)修行者は、なすべき事をなす。すなわち:
a)姿勢。あなたが座る姿勢から、立つ姿勢に変わるのは、苦を治する為であり、これは必要な事柄である。そして、この因(苦)は、必ず、あなたが姿勢を変える前に出現しておらねばならず、あなたが歩きたいと思ったが故に歩くのではない(+ようにするor +事に気が付くようにする)。
苦が迫って、あなたが姿勢を変換せざるを得なくなって後、初めえ姿勢を変換する事。
b)食事。これは苦を治するについて、必要不可欠な行為である。飢餓が、我々をして食せしめるのである。
c)厠。これもまた、苦を治するに必要な行為であるーーあなたが厠に行かない事は、不可能である。
d)体温を下げる。もし、身体が熱い時、扇風機をつけるとか、水を被るとかして、苦を治する。これらはみな「如理作意」でもって行わねばならない。もし「如理作意」によって観照する事がないならなければ、これらの行為は貪念によってなされるーーそのために、煩悩もまたその中に入り込むのである。
しかしながら、日常生活の中で、通常の修行に対して、ある種の干渉が起こる事がある:
a)誰かが訪ねて来る。
b)食べ物や品物が、クティ(住まい)に届けられる。
c)修行者に、何かの相談事を持ちかける人がいる。
d)突発事故。突然の停電等。
上記の事柄は、通常の方式で処理する。
修行者は、これらの事柄は vipassanaの修行とは関係がない事を、知っておかねばならない。
これらを、修行(+の場)に持ち込んではならない。
(2-19につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>