<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
2-2-4 修行者が正しく修行しているかの判断
修行者にとって、己自身の修法が、正しいかまたは間違っているかを判断する事は、非常に重要である。
正しく修行している場合、彼は己の身体の姿勢を知っており、また、この姿勢は座っている色身である事も知っている。姿勢を知っているのは正念で、この姿勢が座っている色身だという事を知っているのは正知である。そして修行者はこの二つを同時に知るのである。
もし、修行者が思慧でもって色身を認知するならば、その修法が正しいものであるという事を感じることができるし、正確な思慧が継続して、度々顕現する事によって、実相般若を誘発することができる。
修行者は、四念処の作用は、好きと嫌いを断じ除くことであると知らねばならない。例えば、修行者が妄想する心を嫌っているとして、その時、嫌い(怒り)は増長する。言い換えれば、もし、修行者が定の静けさによって、定を好むのであれば、好き(貪欲)が増長する。
このようであるから、正確な修法は、できる限り<今・ここ>ーー好きと嫌いを断じ除くーーにおいて保持されなければならない。
また、もし、心が法塵に縁する時、心は煩悩とは相応しない(<今・ここ>を保持する)かまたは煩悩と相応する(五蓋が生起するか、または心の煩悩が生起する)このことは、一人ひとりが、如理作意によって定を保持できるかどうかキーポイントである。
もし、心が「妄想」(心の煩悩)に縁し、かつ、如理作意がないならば、嫌悪(怒り)が生じる;しかし、もし、如理作意があるならば、妄想は心(心の状態の一種)に過ぎず、「あなた」ではないことが分かるーーそして、あなたは、再び<今・ここ>に戻ることが出来る。
(2-22につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>