<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
修行者は、姿勢とは、(+一つの)「色身」のみ、ということはなく、座る色身、歩く色身など等、異なる色身がある事を(+知っておかねばならない)。
そうでなければ、修行者は、同じ色身が立っていたり、座っているのだと思ってしまう。
もし、修行者がそのように思うのであれば、彼らは、「顛倒」夢想を、断じ除く事はできないばかりでなく、この色身は己自身だ、と思いなしてしまうのである。
(+修行の)始まりにおいて、修行者は、如理作意によって、<今現在の己は>座る色身であり、その後に明覚(三心)を用いて、座る色身を観照し、痛みが生じた時、座る色身が苦(私が苦なのではない)である事を知る。
姿勢を変える時、如理作意をもって姿勢を変えるのは、苦を治する為である(+と知る)。
如理作意は、姿勢を変える時に生じ易い、貪と瞋恚を、防止する事ができる。
2-3-6 妄想
精進に励み過ぎると、それが妄想の、一因になる事がある。
そしてしばしば、修行者は、妄想と対抗しようとして、状況は更に悪化する。我々は、妄想(+するの)は心であり、妄想は実法であり、法念処の所縁である事を、知る必要がある。
というのも、妄想もまた無常・苦・無我であるが故に。
妄想は、我々をして、心は、コントロールできないものである事を教えてくれる(これを無我という)。
修行の目標は、精進ー正念ー正知の三心を用いて、貪と瞋恚を断じ除くものである。もし、修行者が定を(+必要以上に)好むのであるならば、それは貪である;
しかし修行者は、妄想がやって来ると、妄想を嫌がるが、それは瞋恚である。
このどれか一辺に偏するならば、修行者は、貪と瞋恚を断じ除くことができない。
ゆえに、妄想を喜んでもならないし、嫌ってもならない。
修行者(+の心)は、修行を通して、益々純粋で、成熟していかねばならない。
もし、不純で成熟しないならば、妄想を嫌悪するようになる。
この種の嫌悪の心理は、智慧が欠けているからであるが、特に、如理作意に欠けているのである;
如理作意は、妄想するのは心である事を知っている。妄想は実相である。というのも、妄想は無常・苦・無我であるが故に。
妄想が生じるのは、三心(精進ー正念ー正知)が、<今・ここ>を離れたからである。妄想は心(心の状態)であると理解する時、妄想は消失し、三心(明覚)は、再び<今・ここ>に戻って来る。
妄想の「内容」(一つながりの想)に巻き込まれてはならない。
妄想に巻き込まれると、修行者は、益々<今・ここ>から離れてしまう。
もし、あなたが妄想していると気が付いたその一刹那、あなたがその妄想の「内容」を知っているならば、それはあなたには、覚照力がないからだ、と言える;
もしあなたに、覚照力があるならば、この時、あなたには、(+妄想の)内容は、知りえない。
「これは妄想である」と、理解する事ができさえすれば、心は再び<今・ここ>に戻って来ることができる。(その意味とは、覚照力が強い時、<今・ここ>に戻る為に用する時間は、非常に短い。その時、妄想の内容を知ることはない、という事である。)
修行者が再び<今・ここ>に戻ってきた時、非常にはっきりと、座る色身を観照する事ができる。これは、彼には、座っている色身を見たいという動念がない(煩悩がない。実相を見たいと言う貪念がない)為であるが、これこそが正念の具足であるーー正知の心は、保たれるべきであるが、強迫的であってはならない。
この種の修法は、観衆のように身・心を観照するべきであって、身・心をコントロールしようとしてはならない。
修行経験が豊富になると、妄想心(「猿」のように、縁に絡む心)は緩やかになるーーこうして、修行者は、更に長時間、<今・ここ>を保持できるようになる。
この時、修行者にとって、<今・ここ>を掌握するのも、非常に簡単になる。
(2-29につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>