南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

「身念処」2-28

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

修行者は、姿勢とは、(+一つの)「色身」のみ、ということはなく、座る色身、歩く色身など等、異なる色身がある事を(+知っておかねばならない)。

そうでなければ、修行者は、同じ色身が立っていたり、座っているのだと思ってしまう。

もし、修行者がそのように思うのであれば、彼らは、「顛倒」夢想を、断じ除く事はできないばかりでなく、この色身は己自身だ、と思いなしてしまうのである。

(+修行の)始まりにおいて、修行者は、如理作意によって、<今現在の己は>座る色身であり、その後に明覚(三心)を用いて、座る色身を観照し、痛みが生じた時、座る色身が苦(私が苦なのではない)である事を知る。

姿勢を変える時、如理作意をもって姿勢を変えるのは、苦を治する為である(+と知る)。

如理作意は、姿勢を変える時に生じ易い、貪と瞋恚を、防止する事ができる。

2-3-6 妄想

精進に励み過ぎると、それが妄想の、一因になる事がある。

そしてしばしば、修行者は、妄想と対抗しようとして、状況は更に悪化する。我々は、妄想(+するの)は心であり、妄想は実法であり、法念処の所縁である事を、知る必要がある。

というのも、妄想もまた無常・苦・無我であるが故に。

妄想は、我々をして、心は、コントロールできないものである事を教えてくれる(これを無我という)。

修行の目標は、精進ー正念ー正知の三心を用いて、貪と瞋恚を断じ除くものである。もし、修行者が定を(+必要以上に)好むのであるならば、それは貪である;

しかし修行者は、妄想がやって来ると、妄想を嫌がるが、それは瞋恚である。

このどれか一辺に偏するならば、修行者は、貪と瞋恚を断じ除くことができない。

ゆえに、妄想を喜んでもならないし、嫌ってもならない。

修行者(+の心)は、修行を通して、益々純粋で、成熟していかねばならない。

もし、不純で成熟しないならば、妄想を嫌悪するようになる。

この種の嫌悪の心理は、智慧が欠けているからであるが、特に、如理作意に欠けているのである;

如理作意は、妄想するのは心である事を知っている。妄想は実相である。というのも、妄想は無常・苦・無我であるが故に。

妄想が生じるのは、三心(精進ー正念ー正知)が、<今・ここ>を離れたからである。妄想は心(心の状態)であると理解する時、妄想は消失し、三心(明覚)は、再び<今・ここ>に戻って来る。

妄想の「内容」(一つながりの想)に巻き込まれてはならない。

妄想に巻き込まれると、修行者は、益々<今・ここ>から離れてしまう。

もし、あなたが妄想していると気が付いたその一刹那、あなたがその妄想の「内容」を知っているならば、それはあなたには、覚照力がないからだ、と言える;

もしあなたに、覚照力があるならば、この時、あなたには、(+妄想の)内容は、知りえない。

「これは妄想である」と、理解する事ができさえすれば、心は再び<今・ここ>に戻って来ることができる。(その意味とは、覚照力が強い時、<今・ここ>に戻る為に用する時間は、非常に短い。その時、妄想の内容を知ることはない、という事である。)

修行者が再び<今・ここ>に戻ってきた時、非常にはっきりと、座る色身を観照する事ができる。これは、彼には、座っている色身を見たいという動念がない(煩悩がない。実相を見たいと言う貪念がない)為であるが、これこそが正念の具足であるーー正知の心は、保たれるべきであるが、強迫的であってはならない。

この種の修法は、観衆のように身・心を観照するべきであって、身・心をコントロールしようとしてはならない。

修行経験が豊富になると、妄想心(「猿」のように、縁に絡む心)は緩やかになるーーこうして、修行者は、更に長時間、<今・ここ>を保持できるようになる。

この時、修行者にとって、<今・ここ>を掌握するのも、非常に簡単になる。

(2-29につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>