<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
5-1 行道智見清浄について(注1)
行道智見清浄(+5~13までの階智の総称)。
もし、修行が正しい場合、行道智見清浄は、この智(第四階智)によって生起する観智である、と言える。
このような名前で呼ぶのは、それが正しい道であり、煩悩、貪愛、惑いが混じらないが故である。
三法印(注2)は、みなこの智に含まれるーー故に、この段階の階智は、非常に重要である。
もし、修行が正しい時、この智において、三法印が、非常にはっきりと、見て取れるようになり、智慧は益々増大し、煩悩は益々断じ除かれる;
身体における観照が、非常にはっきりしている時、修行者は、己自身で、己自身の心が見えるようになる。
観の汚染(vipassana染)は、上述した如くに、合計10種類ある:
1、光明。
修行者は、光の輝くのを見る。
この時、修行者は、涅槃を証悟したと誤解し、この境地に満足を覚え、貪愛を生じさせる。
しかし、これは邪見であり、それは彼の「自我(エゴ)」が、己が涅槃を証悟したのだ、と誤認するのである。
2、智。
ある種の修行者は、教理に詳しく、精通している。その為に、仏法を思惟し続ける。
この種の現象は、修行者をして、<今・ここ>から離れせしめる。
3、喜。
修行者が定に偏する時、喜の感覚を得る。
これは汚染(煩悩)である。
Vipassanaの修習においては、喜の感覚が生まれることはない。というのも、三法印を体験・体得した場合、それが、喜の感覚に導く事はない(+事が知れる)が故に。
注1:本文の重要性に鑑み、行道智見清浄に関して、(訳者により)一項たてました。
注2:三法印を見るということは内観(vipassana)するという事である。それは、我々の頭の中でえがかれる印象、考えとは全く異なる次元の事柄である。
それらは:
1)諸法は自作ではなく、縁による関係性の中で生起する事に覚醒・覚悟する。
こと事から、明瞭に「無我相」を得る、と言う。
2)有るともいえる、無いともいえる所の、前際・後際に関する区別を覚悟する。これを明瞭に「無常相」を得る、と言う。
3)生・滅の逼迫性に覚醒する。
故に明瞭に「苦相」を得る、と言う。
(仏音尊者~または仏覚尊者とも。《清浄道論》第20品)。
(3-6につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>