南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

「身念処」3-6

   <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hot> 

4、軽安。

修行者において、非常に平安で静かな状況が、生起する事がある:

これもまた、定に偏り過ぎるために生じる現象である。三法印は、軽安によって体験・証悟する事は出来ない。

この種の状況の下では、智慧は増大する事はない。

5、楽。

楽の感覚もまた、定の偏りから来る。

楽が生じるやいなや、苦を見る事ができなくなる。

6、勝解。

このことは、修行者をして、彼がすでに涅槃を見たと誤解せしめる。彼の指導者が、そのような体験をしていないと事実を告げても、指導者の話を信用しない。

このことは、信が強すぎて、慧が弱すぎるのが原因で生じる(通常、慧と信のバランスは、均衡を保たねばならない。)

7、策励。

強すぎる堅忍、または精進は、修行者をして疲弊させる。その結果、修行者の心は曖昧になり、妄想が生起する。

通常、精進と定は、そのバランスを保たれなけれならない。

過剰な精進は、妄想を引き起し、過剰な定は、修行者に修行を止めさせるような作用がある。

8、現起(現象)。

念住が強すぎる時、定に偏りが生じ、その結果、修行者は幻像(眼前に各種のイメージが浮かぶ)を見る。

その結果、修行者は、身・心の所縁を見失うーーまた修行者は<今・ここ>から離れてしまい、継続して修行ができなくなる。

9、捨。

猛烈で鋭利な捨念が生じる。修行者は己自身に煩悩が無くなったと誤解するーー煩悩は涅槃によって滅せられたと(+思ってしまう);

しかし、彼には、いまだ邪見からくる煩悩(無知)がある。貪欲と瞋恚もまた、暫定的に平息しているだけであるが、この種の状況の下では、修行者は、修行を続ける事が、できなくなる。

10、欲。

修行者は、すべての観の汚染に対して、快楽(=楽しさ)を感じ、かつ現状を維持する事に満足してしまう。その為、修行を継続する事ができなくなる。

Vipassana染は、一種の内観の汚染・執着である。

それは、定の偏りから生じるもので、この種の状況において、修行者は、彼自身がすでに煩悩がないとか、または、すでに涅槃に到達したのだという錯覚を持つ。

彼の、この種の、「私」がすでに涅槃に到達したのだという感覚は、不清浄である。

というのも、彼の心の中においては、「私」(+がいる)という方式で、修行しているからである。

上記の事柄は、すでに vipassana 四念処の禅観であるとは言えない。

というのも、vipassanaは、「私」という存在でもって、修行するのではないが故に。)

これらの感覚は、サマタにとっては良いものであるが、しかし、vipassanaにとっては良くないものである。

というのも、サマタ(定)は、幻像を助長する為に、非常に強い定が必要であるが、しかし、vipassanaは、それほど強い定は、必要ない。

観の汚染は、以下の三種類の修行者には生じない;

1)正確な方法でvipassanaを修行していない人。この種の状況の下で生じる煩悩は、観の汚染ではない。

2)修行に精進しない人(精進しない為、定に偏る現象も生じない。)

3)聖道を成就した人。正しい修行方法を知っている人。

修行者が、観の汚染を、断じ除く事ができれば、彼は明瞭に、生・滅する身・心を見ることができる。

七清浄の中で、この智(第四階智)から11階智までを、行道智見清浄と呼ぶ。

(3-7につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>