「身念処」3-6
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hot>
4、軽安。
修行者において、非常に平安で静かな状況が、生起する事がある:
これもまた、定に偏り過ぎるために生じる現象である。三法印は、軽安によって体験・証悟する事は出来ない。
この種の状況の下では、智慧は増大する事はない。
5、楽。
楽の感覚もまた、定の偏りから来る。
楽が生じるやいなや、苦を見る事ができなくなる。
6、勝解。
このことは、修行者をして、彼がすでに涅槃を見たと誤解せしめる。彼の指導者が、そのような体験をしていないと事実を告げても、指導者の話を信用しない。
このことは、信が強すぎて、慧が弱すぎるのが原因で生じる(通常、慧と信のバランスは、均衡を保たねばならない。)
7、策励。
強すぎる堅忍、または精進は、修行者をして疲弊させる。その結果、修行者の心は曖昧になり、妄想が生起する。
通常、精進と定は、そのバランスを保たれなけれならない。
過剰な精進は、妄想を引き起し、過剰な定は、修行者に修行を止めさせるような作用がある。
8、現起(現象)。
念住が強すぎる時、定に偏りが生じ、その結果、修行者は幻像(眼前に各種のイメージが浮かぶ)を見る。
その結果、修行者は、身・心の所縁を見失うーーまた修行者は<今・ここ>から離れてしまい、継続して修行ができなくなる。
9、捨。
猛烈で鋭利な捨念が生じる。修行者は己自身に煩悩が無くなったと誤解するーー煩悩は涅槃によって滅せられたと(+思ってしまう);
しかし、彼には、いまだ邪見からくる煩悩(無知)がある。貪欲と瞋恚もまた、暫定的に平息しているだけであるが、この種の状況の下では、修行者は、修行を続ける事が、できなくなる。
10、欲。
修行者は、すべての観の汚染に対して、快楽(=楽しさ)を感じ、かつ現状を維持する事に満足してしまう。その為、修行を継続する事ができなくなる。
Vipassana染は、一種の内観の汚染・執着である。
それは、定の偏りから生じるもので、この種の状況において、修行者は、彼自身がすでに煩悩がないとか、または、すでに涅槃に到達したのだという錯覚を持つ。
彼の、この種の、「私」がすでに涅槃に到達したのだという感覚は、不清浄である。
というのも、彼の心の中においては、「私」(+がいる)という方式で、修行しているからである。
(上記の事柄は、すでに vipassana 四念処の禅観であるとは言えない。
というのも、vipassanaは、「私」という存在でもって、修行するのではないが故に。)
これらの感覚は、サマタにとっては良いものであるが、しかし、vipassanaにとっては良くないものである。
というのも、サマタ(定)は、幻像を助長する為に、非常に強い定が必要であるが、しかし、vipassanaは、それほど強い定は、必要ない。
観の汚染は、以下の三種類の修行者には生じない;
1)正確な方法でvipassanaを修行していない人。この種の状況の下で生じる煩悩は、観の汚染ではない。
2)修行に精進しない人(精進しない為、定に偏る現象も生じない。)
3)聖道を成就した人。正しい修行方法を知っている人。
修行者が、観の汚染を、断じ除く事ができれば、彼は明瞭に、生・滅する身・心を見ることができる。
七清浄の中で、この智(第四階智)から11階智までを、行道智見清浄と呼ぶ。
(3-7につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>