<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
5-2 壊随観智
この智は、ただ只管に、滅し去る身・心を見る事によって生じる智慧である。
この(+段階における)智の修行者は、内(心)、外(所縁)の崩壊する所の五蘊を見る事ができる。
たとえば、座る色身は所知(=知られるもの)であり、滅し去るものである;
座る色身を知ることのできる能知(=知るもの)は心であるが、その心自身もまた、滅し去るものである(+事を知る)。
修行者は、これまで、この種の現象を見た事がなく、その為に畏怖と恐怖を覚える。
精進、正念、正知を具足する時ーーこの智は、邪見を断じ除く事が出来るほど強力である。
滅し去る感覚が強すぎると、修行者は、ただ、この種の、滅し去る現象にのみ専注するようになり、生起の現象に注意を払うことができない。身・心の、このような崩壊現象を見る事によって生じる智慧は、修行者にとって、非常に大きな影響を与える。
というのも、彼は、天地の万物が不実(=実体がない)であり、生・滅するものである事を体験・体得したからである。
この智が成就するならば、顛倒妄想ーー「常」顛倒想と呼ばれるものーー身・心は常であると執着する所の邪見を、断じ除くことができる。
この智が成就すると、修行者は、これは正しい修行方法であると実感する事が出来る為、他の誤った修行方法を試そうという気持ちは、二度と生起しない。
この智は、煩悩を断じ除き、抜き去る第一歩になる。
そして、この智から始まって、最後の階智(道智)まで、修行者は、継続的に煩悩を断じ除く事になる。
煩悩は、徐々に断じ除かれていくが、これらの煩悩は、一人ひとりの人間が、無始以来、生死輪廻の中に沈潜していた、将にその<場所>なのである。
この智を証悟した場合の八種類の功徳と利益:
1)未来において(+得るかもしれない)、如何なる形式の「有」(生命形態)も、何等の楽趣も感じられない。
2)この生は苦である、という事を体験・体得したので、この生は、如何なる楽趣をも、言い立てる事ができない。
3)苦の滅に対して、強烈な楽欲を生じる。
4)彼がもし、比丘であるならば、簡素な生活必需品があれば十分である、という気持ちが生まれる(少欲知足)。
5)比丘であれば、厳格に持戒したい、という強烈な欲求が生じる。
6)この智を証悟した人は、戒に違反しなくなる。
7)修行者は、責務を果たす事、忍辱、他人の煩悩に同情する事に、楽しみを見出す人になり、また、騒音などの干渉の影響を受けなくなる。
8)楽と不楽の感受を超越する。
(3-8につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>