<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
もし、大きな魚を小川に入れたならば、この大きな魚は、非常な苦痛を感じるに違いない。
なぜか?
というのも、小川が小さすぎて、自在に泳ぐ事ができないが故に。
しかし、もし魚を大海の中に放ったならば、彼は悠悠と泳ぐことができる。
同様に、仏陀の一切知智は、《発趣論》を省察した時に初めて、頂点に達する事ができた。
《発趣論》は、《アビダンマ論》の中に列挙される名色法の(+相互の)間において、それは、如何なる種々の方式によって、連携が生じるのかを、詳細に述べているものである。
それは縁起法を解説しているが、それはすなわち、縁法がどのようにして、特有の縁力に依存して、縁生法を生起させるのか、を述べているのである。
故に、《発趣論》全体はすべて、縁起法について、述べているのだと言える。
その中(=縁起法)には、不変の実体、または主宰(+者)というものはなく、衆生もなく、あなたもなく、私もなく、彼もなく、ただ身体と心が相互に関係し合う過程があるのみであって、それらは純粋に、無常であり、無我なる現象である(+ことが分かる)。
仏陀は言う:「縁起を見る者は、仏を見る;仏を見る者は、縁起を見る。」
縁起とは、仏教の全体の教理の中において、最も重要な教法である。
縁起を理解して初めて、無我の真諦を理解する事ができるのである。
本書において検討されるのは、名法と色法の間において、どのようにして相互依存の関係が成立するのか、という問題であり、それはすなわち、諸縁が持つ所の特有の支持力ーー24縁について語られているのである。
一、縁法(paccayadhamma):
これは、他の法縁となる法である。この縁法は、生じる事、支える事、または他の法を維持する事によって其の縁となる縁である。
二、縁生法(paccayuppannadhamma):
これは、縁法の支援を受ける法である。それは、縁法の支援の下、生起するかまたは、その存在を持続させるものである。たとえば「12因縁」の第一支「無明縁行」のその意味は、無明が生起するが故に、行が生起する、という事である。
無明は縁法であり、行は縁生法である。
三、縁力(paccayasattai):
これは、縁法が、縁生法の縁となる特別な方式である。合計24の縁力が存在する。
(1-3につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>