<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
貪・瞋・痴と無貪・無瞋・無痴は、縁法であり、それらの縁生法は、一つの因ごとに相応する名法及び俱生の色法である。
俱生色とは、結生の時に生起する業生色、及びその生命の生かされている間生起する所の心生色である。
それはちょうど、根というものが、樹木を存在させ、成長させ、安定させる根本であるのと同じように、これらの因は、縁生法を誘発し、かつそれらを安定させる。
我々は先に貪因を研究したい。というのも、貪愛は輪廻の根本であるが故に。我々は、貪がどのように生起するのかを知らなければならない。知ることによって、我々は、生起した貪を調伏することができる。
貪愛はどのようにして生起するのか?
通常、貪愛は、喜ばしい、愛すべき六塵の上に建立される。
もし、何かの物が喜ばしくもなく、愛すべきでもない時、我々はそれに執着する事はない。
ちょうど、一人の美人が、他人の目を引くように、醜悪な女性が他人の目を引く事が無いように;
同様に、喜ばしく、美しく、愛すべき六塵ーー色、声、香、味、触、法は、我々の貪を誘発し、それらを得ようとして、業を造る。
我々が六塵を享受している時、それらは確かに、我々に楽しさを齎す。
たとえば、テレビの連続ドラマを見る事が好きな人は、ドラマ(愛すべき色)を見る時、心は非常に楽しくなる;
音楽(愛すべき音)を聴くのが好きな人は、音楽を聴くと、心は非常に楽しくなる;
香水が好きな女性は、香水(愛すべき香)を身に振ると、仕事をしても楽しくなる。
喜ぶべき、愛すべき六塵は、確かに我々に楽しさを齎してくれる。
そしてそうであるが故に、衆生はその中に沈潜してしまう。
たとえこれらの欲楽に禍があるとしても、人々は、この欲楽に対する執着を、放棄することができない。
なぜか?
というのも、貪根心が悪さをしているのである。
当然なことながら、もし、いまだ真正に欲楽の禍を見通すことのできないのであれば、人々がそれを放棄する事もまた、困難なのである。
《中部》(Majjhimanikaya)の中で、仏陀は一つの物語を語っているが、それは我々に対して恐怖の気持ちを齎すもので、下記において、紹介してみたい。
ある人が、生まれながらの失明者であった。彼の友人が(+自分の持っている)白い服は、非常に美しく、純白で、純潔、それを着ると、非常に心地よく、楽しい、と言った。
この失明者は、心の中にある種の感慨が生まれ、その白い服に執着した。
【ここでは、痴が縁法で、白い服に対する巨大な執着は縁生法で、縁力は因縁である】
彼は家に帰ると、母親に言った:
「お母さん、私に真っ白な、汚点のない服を下さい。私はそれが着たいのです。」
彼の母親は言った:
「あらら、あなたは生まれながらの失明者で、白だの黒だの青だのは、あなたにとってどうでもいいことです」
しかし、この失明者は、白い服に対して非常なる執着を擁していたので、母親がどのように言っても
「見えなくても、私は白い服が欲しい」
と言い続け、しかし、母親は取り合わなかった。
彼は友人の処へ行って
「あなた、私に純白で、汚点のない服をプレゼントしてくれませんか?」
と頼んだ。
友人は
「彼はどうせ目が見えない。私が彼に白いのをあげても、黒いのをあげても、どうせ同じことだ」
と思い、友人は彼に炭より黒い、ボロボロの服を上げた。
失明者は、嬉しくなってそれを身に着け、彼が夢に見、執着した願望は、実現した、と思った。
そして、彼は人々に向かって自慢した:
「おい、お前。私が着ている、この純潔で、白くて綺麗な服を、見てご覧なさい」
多くの人々は、彼を嗤った。
「この失明者はバカだ。彼が着ているのは黒くてボロボロの服なのに、彼は自分が白くて綺麗な服を着ていると思い込み、得意になって、喜んでいる。」
この事が母親の耳に入り、彼女は思った:
「ああ、私の息子。私に恥をかかせて。私は彼に真実を話そう。」
そして、息子の前で言った:
「息子よ。あなたが着ているのは黒くて、ボロボロの服です。それはあなたが思っているような白い服ではないのです」と。
(1-10につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>