<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
所縁 ārammaṇa または ālambana は、心と相応する心所が、楽を取り(=楽しみに執着し)、そこに留まる所の、目標である。
心は、なぜ生起するのか?
所縁の関係によって、である。
ひとたび所縁がある所、心は生起する。
そして、の上、所縁に引き付けられてしまう。
たとえば、美しい声、音等を聞くと、我々の耳識は、音に引き留められてしまうのである。
合計で、六つの所縁がある。
すなわち、六塵ーー色、音(声)、香、味、触と法である。
仏陀は、これらを、六個の強盗だと言っている。
常に我々の六根ーー目、耳、鼻、舌、身体と意を打ち、襲うからである。
色塵は我々の眼根を打ち襲い、我々をして、貪愛または怒り、恨みを生起せしめる;
たとえば男性は、美人の女性を見ると、容易に貪が生起する。
もし、我々が喜ばしくないもの、恨んでいる人に会うならば、容易に瞋恚が生起する。
音が我々の耳を打つとき、他人からの称賛の声を聴いて、我々の心は多いに貪を生じせしめる;
他人からの批判の声を聞いた時、我々は大いに怒り、瞋を生起させる。
味が我々の舌根を打ち襲う時、舌が喜ばしくない味を味わうと、顔はしかめっつらになり、瞋が生じる;喜ばしい味を味わう時、笑顔になり、貪が生じる。
(2-6につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>