<以下は福岡ダンマセンターの法話会に供する資料です>
〔現在使用に供する緊急用ノートPCの調子悪いため、『37・・』を優先的に翻訳します。メール送信も成功したり、しなかったりです。あしからず〕
止まることを知らない輪廻は、ちょうどこの急流のようで、心念をコントロールする能力を有しない衆生は、ちょうどこの船頭と同じであり、心は船である。
仏法のない「空(空白)」の世界において、ある種の存在から、もうひとつ別の存在へと漂流する衆生は、ちょうど、船頭が、船を動かす途中において、山や谷、森ばかりの場所で、船を接岸する岸がないのと、同じようである。
あるときには、仏法の存在する世界に生まれながら、それを認識する機会がない。というのも、彼らは「八難」の中にいるが故に。
それは、ちょうど船頭が、岸を有する町に来ていながら、夜が暗いために、法を見分けることができない、のと同じである。
あるときには、彼らは仏法のある中で、人類、天人または梵天に生まれるが、しかし、彼らは己の心をコントロールできない上に、四念住のヴィッパサナ法門を、継続的に修行する努力をしないが故に、引き続き、輪廻の中で漂っているのである。
彼らは、町に有する岸を確認しながら、舵を切って接岸する能力がない船頭のように、仕方なく、大海へと向かってしまう。
無尽の輪廻のうちに、仏法のある時代に生まれ、世間的な病苦の中から解脱する衆生の数は、ガンジス川の岸の砂粒の数より多いが、これらの衆生は、四念住の修行を通して、心をコントロールする能力をゆうしており、かつ、心念を、何か己が意識的に注意したい対象に置くことができる。
(2-9につづく)とりあえずUP。校正は後日。