<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)
已に生じた善業と未だ生じない善業
次に、私は「善業」を「已に生じた善業」と「未だ生じない善業」に分ける。
先に、戒・定・慧の三学について述べて、その次に戒清浄、心清浄、見清浄、度疑清浄、道非道清浄、行道智見清浄、智見清浄について述べる。
我々は、輪廻は、非常に怖いものだ、と言う。
それは、「已に生じた」と「未だ生じない」所の悪行(duccaritas)は、身見を基礎とするからである。
所謂、隠れ場所なく、天国はなく、依拠する所なくというのは、悪行と「身見」は同じものであるからである。
「身見」が取り除かれると、新旧の悪行は、絶滅する。
新旧の悪行が絶滅すれば、三悪道から輪廻から解脱することができ、後は、人類に生まれるか、天人または梵天などの比較的高い境地に生まれる。
衆生は、三悪道と新旧の悪行の中から解脱する事を保証される為に、仏法を見つけたいという考えを有した。
今、仏法に出会えたが故に、「身見」という大きな悪を根ごと、取り除かねばならない。
衆生の「身見」は、三つのレベルに依拠している;
一、犯罪(Vītikkama)。
二、煩悩に絡まれる(Pariyuṭṭhāna)。
三、随眠(Anusaya)。
この三種類のレベルは「身見」の領域であり、粗い身見、中等の身見、微細な身見に分けることができる。
(3-9につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>