<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)
「已に生じた」と「未生(未だ生じない)」を区別する二種類の方法とは;
一、今生を起点とする区別。
二、過去の輪廻を起点とする区別。
今、私は、今生を起点とする区別の方法を述べる。
今生において、いまだ戒・律を修習した事のない人は、「已に生じた戒・律」を具有していない;今生またはある段階の時期において、戒・律を修習するならば、この種の戒律は「已に生じた」と言える。
同様に、禅定と智慧の例では、過去にすでに証得したものを「已に生じた」と言い、過去に証得した事がないものを「未だ生じない」と言う。
過去の輪廻を起点とした場合の区別の方法は二種類の戒・律があり、それは「世間的戒律」と「出世間的戒律」である。「世間的戒律」は「已に生じた」ものである。というのも、一人の衆生が過去の輪廻のある時期に、「世間的戒律」を修習した事がない、などという事がないからである。
しかし、凡夫の立場で言えば、「出世間的戒律」は「未生」の戒律である。
禅定もまたニ種類ある。
それは「世間的禅定」と「出世間的禅定」である。
「世間的禅定」はすでに過去の輪廻の内に証得したとしたならば、それは「已に生じた」と言う。そして、凡夫の立場で言えば、「出世間的禅定」は、「未生」である。
智慧にもニ種類ある。
それは「世間的智慧」と「出世間的智慧」である。
「見清浄」、「度疑清浄」、「道非道清浄」、「行道智見清浄」は、「世間的智慧」である。
これら「世間的智慧」は、過去世の中で、仏法に出会った事のある人にとっては、「已に生じた」であり、未だ、仏法に出会った事のない人にとっては、「未生」である。
「智見清浄」は、「出世間的智慧」である。
凡夫の立場から言えば、「出世間的智慧」は「未生」である。
というのも、過去の輪廻の中で、いまだ「出世間的智慧」を証得していないからである。
(3-14につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>