<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
「智慧とはなんだ!」
「智慧とは、因縁法と諸行の無常・苦・無我の本質を洞察する事だ。
お前が私を、馬の尻尾から解き放した後、お前は私を、谷底へ突き落すと脅した。
その時、私はお前に何と言った?
私はこう言った:
『私を脅せるなどと、妄想するな。
私は何も恐れないのだから!』と。
これは無我を知っている所の智慧だ;
その後にお前は悪魔に、また悪龍に変身して、私を脅して攻撃しようとしたが、私はそれでも恐れなかった。
それは因縁法と、無我を知っている所の智慧だ。」
「森の中に、我々二人しかいない。
何時如何なる時でも、お前の心境や、心情に変化があったならば、お前の顔色もそれに従って変化する。それを私は察知することができる。
これは観察の智慧だ。」
「慙ってなんだ!」
「慙とは、悪事を働く事に恥を知ることだ。
お前が私の家で、私を高座から引きずり下ろして、私の手足を縛り、私に粗暴に対応した、私を馬の尻尾に縛り付けたが、あのような粗暴なふるまいをするのは、恥ずかしいものだ。
しかし、お前はそれらの事柄に、何等の羞恥も感じない。
少なくとも私は、あのような行為に対して、非常なる羞恥を感じる。
これが、お前が、慙を欠いているという説明だ。」
「愧とはなんだ!」
「愧とは、悪をした後に、果報が来る事を恐れる事だ。
お前は私を粗暴にも、馬の尻尾に縛り付けて、あちこち駆け回り、その後に、私を谷に突き落とすと脅した。
お前は貪愛と我慢(māna。高慢の事)に惑わされたが、この二種類の力は、悪魔のようにお前をコントロールしている。
その為、お前は進んで私の手足を縛り、私に暴力をふるったが、お前が、これら悪魔のような仕業をなしてもなお、果報を恐れないのは、お前の心が、イランダーティーに傾いており、王女に恋慕・執着し、魂(=心)が引きずられているからなのだよ!
仏陀は言う:
『愛の縁により、取が生起する;
取の縁により、有が生起する。
有の縁により、生が生起する。
生の縁により、老死愁悲苦憂悩が生起する』と。
『有』とは、お前が今現在なしている所の、各種の悪業であり、それは新しい生命の生起を誘発する。
『有の縁により、生あり』
生は恐ろしいものだ。
というのも、生は、老、病、死とそれに随伴する所の憂、悲、苦悩、失望などを齎すが故に。
私は悪をなす事によって、齎される苦の果報が恐ろしい。
このような、悪を為す事によって、苦の果報が齎されるのを恐れるのを、愧と言のだ。」
(3-14につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>