FDC資料「37道品ハンドブック」3-14 Ledī Sayādaw著
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)
次に、私は、四種類の「精進」に関する要諦を述べる。
ただ仏法に出会った者、すなわち、修行者だけに、徹底的に己自身の新旧の「已に生じた悪業」の点検をする機縁が生じる。
仏法に出会ってのみ、一人の修行者の中で、一系列の存在が顕現する所の「新しい悪業」を止める縁起が生起する可能性がある。
輪廻は無限であり、もし、一人の修行者が、仏法に出会う事がないのであれば、この二種類の悪業を点検する機縁がない。
というのも、己自身で、この二種類の悪業を点検する作業は、「随眠」レベルの「身見」を根こそぎ取り除く事と一致するからである。
また、随眠レベルの身見を根こそぎ取り除く事は、一種「無我の禅修」に相当する。
一人の修行者が、仏法に出会う時に初めて、この種「無我の禅修」(Anatta-bhāvanā)が生起する。
独覚仏として授記された人が、仏法と出会う時、先に「無我の禅修」の種を取得する必要がある。
ひとたび、仏法が世界において、消失したならば、「無我」の(+教えの)声は聞こえなくなる。いわゆる「無我」の教えの声とは、色、名、蘊、処、界と縁起の声である。
アビダンマ論全体は、「無我」の声に満ち満ちているが、論蔵の注疏もまた、そのようである。
「無我の禅修」は、先に戒清浄が具足していなければならない。
その後に「身至念」(32身体部分)に安住し、虚妄・妄想によって不安になる己の心霊を、禅定と直観(vipassana)を通して、浄化し、コントロール(制御)しなければならない。
ただこのような努力を通してのみ、「随眠」レベルの「身見」を根ごと取り除く事が出来、そのことによって初めて、すべての「已に生じた身見」と「未生の身見」と悪行が、ことごとく滅し去られるのである。
未だ出現していない善業を出現させ、すでに出現した善業を発展、成長させる精進・努力とは、「身至念」に安住した後、「無我の禅修」を円満愚息する努力を言うのである。
(3-15につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>