FDC資料「37道品ハンドブック」3-19 Ledī Sayādaw著
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)
已に生じた智慧と未生の智慧
《有明大経》に以下のような事が書かれてある:
「ソータパナ道における正見と正思惟は、涅槃を目標としており、故にこれを智慧と言う。」
この種の智慧は、随眠レベルの身見を打ち壊すことができるし、また、捨断の力が強く、一切の邪見、邪思惟の遺跡を完全に取り除き、堅固な心で、悪行、邪命を断じ除く。
邪業の古い蔵、倉庫もまた、完全に消え去り、次には、三悪道の輪廻の中から解脱することができる。
この時より、邪見悪行の罪悪は、未来の生において、二度と生起することはない。
唯一、仏法の中において、「無我の禅修」が生起する時においてのみ、智慧は、生起する。
故に、すでに仏法に出会えた衆生は、仏法がまだ存在する時期に、この種の「未生の智慧」を証得する為の努力をしなければならない。
この事は、「身至念」から始めて、「無我の禅修」が円満具足するまで、37道品を修習しなければならない事を意味する。
聖者の世間的正見、正思惟は、「定法」のレベルの上に打ち建てられている。
彼らが、それに安立する刹那から始まって、一系列の生まれによる転生を通して、涅槃を証入するまで、これら聖者は「業自性」の正見智、経教智、実践智及び四聖諦を、擁している。
しかし、凡夫の擁する世間的智慧は、「不定法」のレベルの上に打ち建てられている。
凡夫は、無尽の輪廻の中で漂っており、ある時には「法」の中で学習し、ある時には、修習の内から名声を獲得し、ある時には転生して大長老になり、あるときには大物理学者になり、その他の時期には、かたつむり、回虫、蛭、蚤、昆虫、蛆などの動物・生物になって、ただひたすら生存そのものだけを、願うのである。
故に、衆生は、縁があって仏法に出会ったならば、「不定法」(暫定的か、または刹那的に擁する法)の智慧を、「定法」の智慧に転換するよう、精進・努力しなければならない。
この事は、「身至念」から始めて、「無我の禅修」が円満具足するまで、37道品を修習しなければならない事を意味する。
善業に関する二種類の智慧についての説明は、これで完了する。
(3-21につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>