南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

FDC資料「37道品ハンドブック」5-2 Ledī Sayādaw著

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)

「信仰」は一般の人々を、布施、戒律(+の守護)、初級的な禅定、色々な実践に導くことができるが、これを「自然信」と言う。

この種の「信仰」は、禅定の修習程には、一般の人々の心に安定を齎すことはできない。

「信仰」に欠ける一般の人々の心は、決して善業に転向する事はなく、反対に邪行の中で喜びを感じるのである。

(原文一部意味不明につき、略)

「戒律清浄」の実践・修行と、経典の研究に関しても、同様である。

止観の「業処」を修習する事において、「自然信」は、心霊(=心)をコントロール(制御)する事はできない。

というのも、心霊は、「信仰」のコントロール(制御)に対して、容易に反撃に出て、(+心を)他へ向かわせるが故に。

「業処」の修習には、「自然信」はあまり役に立たないのである。

「修習信」は、種が発育する温床である。

言い換えれば、修習の内に、たとえば、呼気・吸気という「業処」において、課題を修習するならば、巨大なエネルギーを得ることができる。

「37道品」の中では、「修習信」だけを、「信根」と呼ぶ。

「業処」の修習において、「修習信」とは心霊の揺れ動いて不安定なエネルギーが消失して、清明な、安定した心が生起する事を意味している。

心の専注力が清明になった時、そしてまた、迷わず、惑わない時、その時初めて(+心は)これらの対象に固着することができる。

「身念住」の修習、たとえば、呼気・吸気の「出入息念」は、「修習信」(+を持つための)前提的温床である。

もし、心が「身念住」の固着するならば、たとえば、呼気・吸気であるが、それは「修習信」を得たのだと言える。

しかしながら、もし「禅定」と「直観(=vipassana)」の範囲の内に修行を継続して、「身見」の三種類のレベルを打ち壊す能力を得たいと思い、適切に「禅定」と「直観」を修習したいと思うのであれば、彼らは、法に通達している導師に依止しなければならない。

(5-3につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<「37道品ハンドブック」ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>