<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)
次に、生命における最初の意門心路過程が生起するが、それは己自身の新しい生命を所縁として、新しい生命に執着する。
梵天、天界、人界、鬼道、動物界または地獄等、どこに生まれたとしても、我々は生命の内における、最初の意門心路過程は、この新しい生が、痛苦なものであろうが、楽しいものであろうが、新しい一生に執着を始める。
これが、なぜ、貪愛的な生存(有愛)が輪廻の根本であるかと言う理由である。
貪愛には三種類ある:欲愛、有愛と無有愛である。
有愛とは、生命に執着し、その生命が低いもの、微弱なもの、卑賤なもの、高尚なものに関わらず、それが消滅しないように(+と願う)。
有愛を取り除くのは、非常に困難である。
一つ目の意門心路過程の後は、続いて有分で、次に二番目の意門心路過程、次に有分で、続いて、三番目の意門心路過程・・・心路は、このようにして、この期の生命が終わりを宣告する所の死亡心まで延々と続く。
死亡心が生起して、その後に滅する間、中間に間断というのがなく、密着して次の心・・・結生識が生起して、また新しい一つの世が始まる。
こうしたことから、生死輪廻は、ただ心の生・滅の流れに過ぎない(+事が分かる)。
この種の心の生・滅は、その合間に間断がなく、故に無間縁と言う。
(5-1につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>