Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

FDC資料「37道品ハンドブック」6-11 Ledī Sayādaw著

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)

ただし、もし、これらの人々が、「正念」の中のどれか一つの項目において、たとえば、「出入息念」において安立する事ができたならば、そして、そのことによって「信力」、「精進力」、「念力(=専注力)」を打ち立てることができたならば、この種の頑迷な思想は消失して、善業の思想が必然的に生起するに違いない。

というのも、彼らはすでに強力な力を開発したからである。

上記は、如何にしてこの種の力を開発するのか、という方法を述べたものである。

この種の修行者は、「名」と「色」に証入する事は尚、無理ではあるが、しかし「財、食、味への欲望」、「世間的な財への欲望」へのコントロール(抑制)、また、微弱な「信」等は開発する事ができる;

「怠慢」と「迷いと惑い」へのコントロール(抑制)もまた、「禅定」と「智慧」を、強化することができる。

これらの「力」が開発された時、修行者の内心もまた、必然的に変化が現れるのである。

たとえば、一人の、難病に苦しむ患者は、一般的な事柄や世間的な事業に関して、興味を失うに違いない。しかし、もし、適切な療法の下、難病が癒えたならば、諦めの気持ちから離れて、(+人生に対して)改めて奮起するに違いない。

このような状況は、(+一人の人間の内に生じるのは)当然の事である。

「欲望」、「怠慢」、「失念」、「散乱」、「迷いと惑い」というこの種の悪業、それは五種類の病気のようである;

仏法の中の「禅定」、「直観(=vipassana)」は、世間的な仕事、事業のようである;

たとえば、四念処の「出入息念」は、ちょうど病気の療法のようであるが、そのようであるが故に、その他類似した事柄も類推を通して、容易に理解できるのである。

仏陀は以下のように言う:

「信力を修習せよ!

精進力を修習せよ!

念力を修習せよ!

定力を修習せよ!

慧力を修習せよ!」

(経蔵参照の事。《相応部》・大品・力相応第6、Gaṅgā-peyyāla-vagga、Balādi-sutta第一経から第12経まで)

この世界では、建築士の力は、完全な工具に依存する。たとえば、錐、鑿、斧、鋸等に。

この建築士が、この種の力(=道具と道具を使いこなす力)を持っていて初めて、寺院を建築したり、家を建てたりすることができる。

大工でも、鍛冶屋でも、彫刻家でも、それぞれがそれぞれに相応しい力をもっているものであって、彼らの力というものは、完全なる工具・道具と装備が含まれるのである。

ただこのようであって初めて、彼らは己自身の仕事を完成させることができる。

同様に、仏法の中において、「道智」(四向)、「果智」(四果)を証得する為、「禅定」と「直観(=vipassana)」の修習を実践する場合に必要とされる工具は、「修習信」、「修習精進」、「修習念」、「修習定」、「修習慧」であり、また、それは「四念住」の中の「出入息念」によって、開発されるものである。

「五力」とは、ヨガ行者の力(yogāvacaraとは、「禅定」の修習または「直観(=vipassana)」の修習、またはその両方を修習する人を指す)である。

こうしたことから、仏法において、禅定、直観(=vipassana)を修習して成果を得ようと思う修行者は、五力を開発しなければならない。

これが、上に述べた所の偈頌における「修習」(bhāveti)の意義である。

(7-1につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>