<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)
第九章 如何にして37道品を修行するのか
仏法に出会った衆生は、先に「戒清浄」を安立させ、37道品を修習して、(+将来において)「預流聖者」を証得する。
今、私は、簡単にではあるが、37道品の修行方法を解説する。
「七清浄」を修習すれば、それがすなわち、37道品の修行になる。
特に「心清浄道」は、「禅定行者」の修行者にのみ、関係がある。
「道非道智見清浄道」は、「増上慢」の修行者と関係がある。
これら(+増上慢)の修行者は、「聖道」、「聖果」を証得していないのに、己自身は証入したのだと思い込んでいる。
「戒清浄道」、「別解脱清浄道」、「行道智見清浄道」、「出世間智見清浄道」は、多くの修行者に関連する。
この五種類の清浄道の内、「戒清浄道」は、「戒蘊道」において、処理される(=実践される)ものであるが、これには「活命戒」の修持も含まれる。
一般的に言って、「心清浄道」は「身念住」の安立を含む。
ある種の修行者は、呼吸を観る事によって「身念住」を安立せしめる。
一般的に、一人の修行者が、どのような時間においても、どのような種類の身体的姿勢においても、呼気と吸気に心を専注させる事ができるならば、「身念住」は、すでに安立されたと言える。
ある種の修行者の、「身念住」の安立方法は、《経》の文章(《長部》第22経、《大念処経》)に言う所の、四種類の姿勢において、ある種の人々は、身体の動きにおける「正念正知」において、安立する。
これ以外に、ある種の人々は、身体の32の部分を観照して、「身念住」を安立せしめる。
この方法のうちで、頭髪、体毛、爪、歯、皮膚を観照するものは、「皮の五法」(tacapañcaka)と言われる。
もし、これらの身体部分において、安定的に自在にそれらを観照する事ができるならば、身体のどのような部分においても、「身念住」を安立せしめることができる。
専注力は、身体の骨格に向けることもできる。
もし、専注力を安定的に骨格に安立させる事ができたならば、「身念住」は、安立したと言える。
もし、修行の最初から、身体の「色蘊」と「名蘊」を分析的に区分することができ、かつ専注力が、この種の修行に対して非常に安定的であるならば、「身念住」の修行は終了する。
もし、一人の修行者が、「地」、「水」、「火」、「風」、「空」、「識」の六界を分析的に覚知・察知する事ができたならば、「見清浄道」を完成させた事になる。
もし、上記の「界」の生起する原因を、明晰に覚知・察知する事ができるならば、「別解脱清浄道」の修行は完成する。
この修行者は、「地」、「水」、「火」、「風」、「空」の生起する原因を明晰に察知し、(+それらが生起する原因が)「業」、「心」、「時」、「食」である事を明晰に察知し、また「六識」の生起する原因を察知する事(+も求められるが)、これはすなわち、知覚の六つの対象の事である。
「行道智見清浄道」とは、「無常」、「苦」、「無我」の三法印を意味する。
もし、上に述べた六識において、三法印を明晰に察知する事ができたならば、「行道智見清浄道」に証入した事になる。
「出世間智見清浄道」は、四種類の道智を言う。
ここにおいて、私は、簡単に五種類の「清浄道」に関する説明をした。
更に深い説明は、《諸相ハンドブック》、《明道ハンドブック》及び《飲食ハンドブック》を参照の事。
37道品の各々の品は、仏陀の遺産であり、かつ、仏法における無価(=値段をつけられない程貴重なもの)の宝石である。
<下線訳者注:道非道智見清浄、行道智見清浄などは、修行者の性格に合わせて修行するのではなく、悟りを目指す修行者の必修だと思われる。いずれ「禅修指南」(本雅難陀尊者著)を翻訳して解説したい。>
(10-1につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>