南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

FDC資料「37道品ハンドブック」10-3 Ledī Sayādaw著

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)

最終的に涅槃に入るために、善業を修習する。

それはすなわち、涅槃を証得する前の段階における世間的な利益、(+輪廻による)再生を厭わないなど、すべて「輪廻」及び「輪廻から離れる」事に関連している為、また、「両依止」(ubhaya nissita)とも言う。

しかし、パーリ経典では、「輪廻」と「輪廻から離れる」(+という二つの概念)にしか、触れていない。

輪廻(+に利益あるような修行結果の)証得に(+重点)を置く傾向にある修行者は、「輪廻に依拠する法」を実践していると言えるし、輪廻を離れるという結果に重点を置いている修行者は、「輪廻から離れる為の法に依拠」していると言える。

「決定」と「未決定」の分類については、(+以下の通りである。)

一般の凡夫の「身見随眠」は、巨大な領域であり、それは烈火の燃焼の巨大さと同じで、深い海の様でもある。

一般的に凡夫が、たまに修習する所の戒・定・慧は、一粒の雨が、燃え盛る海の中に落ちるようなものであって、

「私は戒律を円満した!

私は戒律を具足した!

私は禅定ができた!

私は正覚で(真理を)知った!

私は相当の機知に富み、

私は『色』と『名』を覚知・察知した!

私は『色』と『名』を黙観した!」

などと言うのは、すべて戒・定・慧の行為への露出・自慢であり、それは、「私の」「身見」に惑わされているに過ぎないのである。

それはちょうど、雨の一粒が、烈火のごとくに燃焼する大海の中に落ちるようなものなのである。

(10-4につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>