<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)
最終的に涅槃に入るために、善業を修習する。
それはすなわち、涅槃を証得する前の段階における世間的な利益、(+輪廻による)再生を厭わないなど、すべて「輪廻」及び「輪廻から離れる」事に関連している為、また、「両依止」(ubhaya nissita)とも言う。
しかし、パーリ経典では、「輪廻」と「輪廻から離れる」(+という二つの概念)にしか、触れていない。
輪廻(+に利益あるような修行結果の)証得に(+重点)を置く傾向にある修行者は、「輪廻に依拠する法」を実践していると言えるし、輪廻を離れるという結果に重点を置いている修行者は、「輪廻から離れる為の法に依拠」していると言える。
「決定」と「未決定」の分類については、(+以下の通りである。)
一般の凡夫の「身見随眠」は、巨大な領域であり、それは烈火の燃焼の巨大さと同じで、深い海の様でもある。
一般的に凡夫が、たまに修習する所の戒・定・慧は、一粒の雨が、燃え盛る海の中に落ちるようなものであって、
「私は戒律を円満した!
私は戒律を具足した!
私は禅定ができた!
私は正覚で(真理を)知った!
私は相当の機知に富み、
私は『色』と『名』を覚知・察知した!
私は『色』と『名』を黙観した!」
などと言うのは、すべて戒・定・慧の行為への露出・自慢であり、それは、「私の」「身見」に惑わされているに過ぎないのである。
それはちょうど、雨の一粒が、烈火のごとくに燃焼する大海の中に落ちるようなものなのである。
(10-4につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>