<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)
ここにおいて、我々は以下のように言う事ができる。
上に述べた事柄が事実であれば、それは、仏陀が己自ら、巧妙に衆生を済度しようとし、彼らが「財の遺産」の中で流転するのを、避ける事ができる様に、したのである。
この点について、私は特別に(+以下の事柄を)、指摘したいと思う。というのも、「聖典の学習」の貢献者と護持者は、「助縁財」、「世間財」と関連しないでは、いられないからである。
「財の貪欲」に沈潜しないように、仏陀の開示した所の教え、及び、残された「浄の観察」(paccavekkhaṇa suddhi)の修行の法門、たとえば「衣の如理観察」などは、重視されなければならない。
こういう事から、修行者は「浄の観察」の実践方法の取り決めから、「資具依止戒律に依って想う所の智慧」を生起せしめるならば、この智慧の船に乗って、二種類の「財の貪欲」から解脱することができる。
たとえ彼らが「財の貪欲」の中において生活せざるを得なくても、「財」の大海に沈潜したり、漂ったりする事はない。
(10-12につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>