FDC資料「37道品ハンドブック」10-17 Ledī Sayādaw著
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)
善良で有徳なる修行者は、
善の遺産とは何か、悪の資産とは何か?
何が「決定」の遺産で、何が「未決定」の遺産か?
何が善の継承者で、何が悪の継承であるか?
を察知することができる。
これら善良なる有徳の修行者が、仏法の内における悪の遺産の継承者になりたいと渇望するならば、彼らは、過去の累劫の(+人生)の中で、(+よき)努力は払わなかったに違いない;
ただ只管、善の遺産の継承者になりたいと願って、彼らは、努力してきたのである;
もし、彼らが「未決定」の、暫定的な遺産の継承者になりたいのであれば、彼らは布施、戒律と禅定の修行を実践したりはしない。
彼らは「決定」の継承者になりたいが故に、(布施、戒律と禅定を修持するのである)。
すでに存在する事実をもって、子細に観察するならば、仏陀の弟子となって、その継承者とならなんとする修行者に対して、仏陀は、悪の継承者になるように、己を暫定的な「未決法」の継承者になるようにとは、勧めてはいない。
このことから、仏陀は悪の遺産に反対している事が分かる。
これらの修行者は「37道品」という、この種の善の遺産の継承者となる為に、また、「決定法」の継承者になる為に、努力しなければならない。
多くの生における累劫の輪廻の中で、いつ、布施、戒律と禅修の修行をしたかにかかわらず、通常、衆生はこれらの善の行為を通して、来世において、人類に転生した時に、仏陀に会って、世間的な痛苦から解脱したいという希望、または「道智」、「果智」と涅槃を証得できるようになりたい、という希望を持っている。
故に、彼らにとっては、「法」の遺産を希求する事は、気持ちの和む、当然の事である。
しかし、これらの行為を通して、未来の生において、仏陀に会える事、また世間的な富と地位を獲得する事、この事は非常に希な出来事なのである。
彼らにとって、「財の遺産」を得たいと言う希望は非常に薄く、これらの善行為でもって、「成就の獲得」「財の成就」「自在の成就」を得る機会を願う事もない。
(10-18につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>