Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

FDC資料「37道品ハンドブック」11-5 Ledī Sayādaw著

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)

◎「身見」の罪悪

「身見」の悪は、極端で深刻であり、その影響は、深遠である。

一人の、母親殺しの業行を犯した人は、必ず、無間地獄の境界相に落ちて、怯え震える。

そして、母親殺しの業行を「自我」に転化して、かつ「私は間違いを犯した!私は本当に間違いを犯した!」等の、その種の<思い>の、巨大な苦悩に、深く影響される。

もし、この衆生が完全に「無我」を体験・証悟し、かつ、「私は本当に間違いを犯した!」という考えを放棄する事ができたならば、母親殺しの業行は、二度と作用を発揮しない。

しかし、衆生において、この種の考えを断じ除くことは、非常に難しい。

業は意なくも、衆生に随伴し、また、(+業には)業果を生じようという意もないのではあるが、衆生が「これは私の犯した業である。これは私の業である」という風に執着するが故に、(+思いが)強化されてしまう。

実は、この種の、強くて力のある執着的な行為によって、業は果報を、生じせしめるのである。

世俗の人々は、この種の方式でもって、迷いと惑いを受け、「身見」に執着するのである。

悪業もまた同様であって、「身見」という強くて力のある執着的行為によって、悪業は輪廻を通して、衆生に随伴し、彼らはその為に再生し、かつ、業報を生じせしめる。

衆生は、彼らが業果の圧迫を受けて、巨大な苦難の過程の中にある事を発見しても、彼らは悪業を止めたり、捨てたりする事はない。

これらの衆生は、悪業をば「私のなした悪業」と見做して、それらに執着し、たとえ地獄にいたとしても、業から生じる所の苦果を、受け取るのである。

衆生が、これらの悪業を捨て去らないが故に、これらの業は、何等の利益にならないばかりか、却って果報を齎す。

これらの業は、絶え間なく果報を生じるため、これらの衆生は、地獄から抜け出す事ができない。

これが「身見」における、罪悪の深くて重い所以なのである。

(11-6につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>