FDC資料「37道品ハンドブック」11-6 Ledī Sayādaw著
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)
同様に、衆生は極端に疾病、老化と死に恐怖する。
しかし、彼らは、この種の懼れを受け入れるが故に、却って、過去の思いがけない事象の中に発生した所の疾病、老化と死に執着し、次のように考えるのである:
「過去において、私はすでに何度も病、老化、死を体験した。」
そして、彼らは、この種の恐ろしい現象を打ち捨てることはできない、という事を発見する。
彼らは、疾病、老化と死の現象を打ち捨てる事ができないが故に、却って、それらに随伴し、それらに抵抗・反抗するが、そのことによって、持続的に圧力(=ストレス)を生じせしめているのである。
疾病、老化と死の現象は、必ずや出現するものであって、これこそが「身見」の罪悪の深重なる所以なのである。
今生もまた同様である。
外部のまたは内部の禍が現前する時、衆生は疾病によって大きく圧迫されるが、彼らは、却って、疾病に対して、執着という態度に出て、以下のように考える:
「私は苦痛を感じている。私は傷付いた。私は傷の痛みに圧迫されている。」として、それら(+の現象に対して)執着する。
この種の執着的な行為は、一種、束縛的な行為であり、彼らが疾病から抜け出す契機を、阻害するものである。
これは「身見」によって束縛される所の行為が、如何に猛烈である(+かという証左でもあるが)、長くて、止まることの知らない輪廻の中において、(+衆生は)これら疾病は、己とは不可分の伴侶であると見做し、その為(+病は)今生まで引き続く事になるのである。
こういう事から、「身見」は、これら疾病の内に、一種の<絆>を造りだして、今生においても、衆生を、大きく圧迫しているのである。
これらの巨大な禍と痛苦自体は、これら衆生に随伴したい、という意は持たないし、また、(+衆生にとって苦痛である所の)状況を、そのまま保とうという意も持たないのではあるが、しかし、「身見」の牽引によって、(+老・病・死は)一世また一世と、衆生に随伴することになるのである。
(11-7につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>