南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

FDC資料「37道品ハンドブック」11-7 Ledī Sayādaw著(翻訳完了)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)

来世もまた同様である。

衆生は以下のように思惟する:

「我々は疾病を経験するだろう。我々は老化するだろう。我々は死ぬだろう。」と。

これら「身見」による行為は、この時から始まって、未来における疾病、老化、死の可能性に執着し、それらを衆生は受け入れてしまうのである。

故に、この種の束縛的行為は、打ち砕かれることなく、却って未来において確実にその姿を現す事になるのである。

これが「身見」の罪悪の深重たる所以である。

以上、「身見」の罪悪が如何に深重であるかを、述べた。

◎表面的な執着と深い所での執着

「愛欲」と「慢」の執着は、「見」の執着ではない。

「愛欲」は「これは私はの財産である」という形式を取り、三界の内の一切の現象に執着する。

「慢」は、「これは私である」という形式でもって、一切の現象に執着する。

衆生が「身見」に執着する事例の中で、「愛欲」と「慢」は、「身見」が切り開いた道を追いかけているのである。

預流果、一来果、不還果聖者の例では、彼らはすでに「身見」を断じ除いているが、「愛欲」と「慢」は、「想顛倒」と「心顛倒」に追随して(+生起する)。

「想顛倒」と「心顛倒」によって生じる執着は、表面的なものであり、「身見」によって生じる執着は深い(+所から生起する)ものである。

以上、我々は、悪業総体が、「身見」の消滅と共に、如何にして止息するかの説明をした。

これにて、筆を置く。

(翻訳完了)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>