<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
人の性格は、一回、また一回と、(+心のクセを)不断に、重複して積み重ねていく事によって、塑性される。
性格の種類は、以下の六種類に、分けることができる;
貪行者、瞋行者、痴行者、覚行者または智慧行者、及び散漫行者である。
一人の人間の、その貪根心が特別に強い時、貪行者となる;
一人の人間の、その智慧が特別に高度である時、覚行者となる。
たとえば、一つの貪が生起する時、もし、それを止めることをしないのであれば、二番目の強烈な貪が生じるが、もし、それをも止める事ができないのであれば、貪心は、益々強烈になる。
毎回、貪が生起する度に、我々がそれを止める事ができないのであれば、その潜在的エネルギーは益々大きくなり、最後には、我々をして、貪行者としての性格を作り上げる事になる。
それはちょうど、雪だるまを転がせば転がす程、大きくなるのと同じであり、道の途中のどこかで止めて、太陽に照らされない限り、雪だるまが小さくなる事はない。
雪だるまが、道の途中で止まるという事はすなわち、貪が生起しても、抑制される事を意味する。
善法とは、太陽の如くであり、貪を溶かすことができる。
もし、貪が生起する度に、我々はそれを調伏する事ができるならば、雪だるまが益々大きくなる事はなくなる。
長い輪廻の中において、我々は同様の過失、同様のパターンを重複して体験し続けているのである。
ある時、あなたは思う:
「明朝、禅の修行をする為に、今夜は早く眠ろう」
しかし、夜になると、何かの口実を見つけて、TVを見るとか、友人に電話するとか、友の訪問を受け入れるとかして、夜更かしし、朝起きれなくなって、早朝に禅の修行をするチャンスを逃し、心中は後悔で一杯になるのである。
次の日も、早く眠る事は出来るのに、何かと口実を見つけて、前日の失敗を繰り返す。
もし、あなたが細心の注意を払って、己自身の人生を振り返るならば、あなたは、過去にした事のある事柄を、再び重複してなしているだけだ、という事を発見するに違いない。
それは前世のパターンが、再度、出現したに過ぎないのである。
数々修習縁を理解する事によって、我々は、己自身の性格を理解する事ができるし、また、己自身の性格を変えるのが、なぜこれほど困難であるかも、理解する事ができる。
多くの場合、我々は、己自身の何かの欠点を直そうという意志はあったとしても、通常、それには非常に時間がかかるのものなのだという事が知れる。
それは悪習・悪癖を形成した日時が、あまりに長い為であり・・・「氷凍三尺非一日之寒(=ローマは一日にしてならず)」、その上に、己自身の心の力が弱いが故、なのである。
菩薩が仏陀になるためには、多くの悪癖を直さなければならない。そうであるが故に、彼(=ゴータマ仏)は、四阿僧祇劫と十万大劫をつかって、ようやく10のハラミツを円満し、仏の境地に到達したのである。
欲楽は多くの過患を齎すが、しかし、それでも我々はそれを手放す事ができず、出家する事ができない。
何故であるか?
それは、我々が、生々世々、代々累積してきた無明と愛欲が、非常に強烈であるためである。
我々は今、四神足の一つをも持っていないが故に、我々自身の身辺の雑事、身辺の親戚・友人、財産、家庭などの、すべて手放すことができないのである。
(12-5につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。
<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>