Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

★飛び入り翻訳~『24縁発趣論』12-4(100/200)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

人の性格は、一回、また一回と、(+心のクセを)不断に、重複して積み重ねていく事によって、塑性される。

性格の種類は、以下の六種類に、分けることができる;

貪行者、瞋行者、痴行者、覚行者または智慧行者、及び散漫行者である。

一人の人間の、その貪根心が特別に強い時、貪行者となる;

一人の人間の、その智慧が特別に高度である時、覚行者となる。

たとえば、一つの貪が生起する時、もし、それを止めることをしないのであれば、二番目の強烈な貪が生じるが、もし、それをも止める事ができないのであれば、貪心は、益々強烈になる。

毎回、貪が生起する度に、我々がそれを止める事ができないのであれば、その潜在的エネルギーは益々大きくなり、最後には、我々をして、貪行者としての性格を作り上げる事になる。

それはちょうど、雪だるまを転がせば転がす程、大きくなるのと同じであり、道の途中のどこかで止めて、太陽に照らされない限り、雪だるまが小さくなる事はない。

雪だるまが、道の途中で止まるという事はすなわち、貪が生起しても、抑制される事を意味する。

善法とは、太陽の如くであり、貪を溶かすことができる。

もし、貪が生起する度に、我々はそれを調伏する事ができるならば、雪だるまが益々大きくなる事はなくなる。

長い輪廻の中において、我々は同様の過失、同様のパターンを重複して体験し続けているのである。

ある時、あなたは思う:

「明朝、禅の修行をする為に、今夜は早く眠ろう」

しかし、夜になると、何かの口実を見つけて、TVを見るとか、友人に電話するとか、友の訪問を受け入れるとかして、夜更かしし、朝起きれなくなって、早朝に禅の修行をするチャンスを逃し、心中は後悔で一杯になるのである。

次の日も、早く眠る事は出来るのに、何かと口実を見つけて、前日の失敗を繰り返す。

もし、あなたが細心の注意を払って、己自身の人生を振り返るならば、あなたは、過去にした事のある事柄を、再び重複してなしているだけだ、という事を発見するに違いない。

それは前世のパターンが、再度、出現したに過ぎないのである。

数々修習縁を理解する事によって、我々は、己自身の性格を理解する事ができるし、また、己自身の性格を変えるのが、なぜこれほど困難であるかも、理解する事ができる。

多くの場合、我々は、己自身の何かの欠点を直そうという意志はあったとしても、通常、それには非常に時間がかかるのものなのだという事が知れる。

それは悪習・悪癖を形成した日時が、あまりに長い為であり・・・「氷凍三尺非一日之寒(=ローマは一日にしてならず)」、その上に、己自身の心の力が弱いが故、なのである。

菩薩が仏陀になるためには、多くの悪癖を直さなければならない。そうであるが故に、彼(=ゴータマ仏)は、四阿僧祇劫と十万大劫をつかって、ようやく10のハラミツを円満し、仏の境地に到達したのである。

欲楽は多くの過患を齎すが、しかし、それでも我々はそれを手放す事ができず、出家する事ができない。

何故であるか?

それは、我々が、生々世々、代々累積してきた無明と愛欲が、非常に強烈であるためである。

我々は今、四神足の一つをも持っていないが故に、我々自身の身辺の雑事、身辺の親戚・友人、財産、家庭などの、すべて手放すことができないのである。

(12-5につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>