<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
ある種の人々は、仏法を学ぶや否や、出家したいと思う。
何故であるか?
それは、過去の生(=過去世)の多くにおいて、出家していた(+体験に基づく)、数々修習縁の故である。
この縁があるが故に、この世では、仏法は痛苦から解脱することができる(+教えである)と聞くや否や、出家したいと思うのである。
これは、前世における、重複した縁力が、彼をして出家したいという思いを、起させしめるからである。
ある種の人々においては、その前世に、この種の出家の因縁はなく、前世において、この種の薫習がない為に、20年も仏法を学んでも、出家したいという発想は出てこないのである。
上述の事から、数々修習縁は、非常に重要である事が分かる。
しかし、生命に異変・改変が訪れた時、我々はどうして、仏陀の教えを思惟し、結果、泰然としていられないのであろうか?
たとえば、事業が失敗した、家庭に問題が起きた、友人が反目して敵になったなど等、どうして我々は、それを無常と見做せないのであろうか?
我々は、過去に一度、仏法を聞き、次に何年か後にまた一度聞く。
もしかすると、もう長年、仏法を聞いていないかもしれない。
そして、我々は、過去に聞いた仏法を、時々刻々思惟し、思い起すことができず、故に、無常観が、我々の心中に育つ事がない。それはまた、我々には、数々修習縁が欠けているのだ、と言い換えてもよいかもしれない。
数々修習縁を強化する為に、我々は常に、無常を観じ、心身にどのような現象が生起しようとも、それが苦または楽であっても、我々はそれらを「無常・無常」と見做し、この種の、法において住する所の観照を、己自身のよき習慣となさなければならない。
そのようであれば、今後、我々の心身に、どのような異変・改変が生じようとも、我々は一切は無常であると思いなして、即刻それを放棄・手放すことができる。
このように実践すれば、我々は、世間八風(注1)において、動揺する事がない。
我々が、呼吸を観じつづければ、定力は更に益々深まるが、これは数々修習縁の力である;
我々は、名色を無常、苦、無我として、観照し続けるが、それによって智慧が熟し、道果を証悟する事ができる。
これもまた、数々修習縁の力である。
(注1)世間八風:
得(labho、またはhita利益)、
不得(失)(alabho、またはahita無利益)
名声(yaso)、悪名(ayaso)
誹謗(ninda)、称賛(pasaṁsā)
楽(sukhaṁ)、苦(dukkhaṁ)
(12-6につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>