Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

★飛び入り翻訳~『24縁発趣論』13-5

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

「業はどこに蔵されているのか?」

あなたはとても知りたいに違いない。

業に潜在するエネルギーを、我々は見る事ができない。

ちょうど、一粒の種が、因と縁が具足すれば、やがて芽を出すであろう、その潜在的エネルギー(+が、我々には、見えないのと同じように)。

ミランダ王問経》で、ミランダ王は、那先比丘に訊ねる:

「尊者、業はどこに蔵されているのか?」

尊者は答える:

「国王、業は刹那に生・滅する所の心識、または身体のどこかに蔵されている、とは言えない。

しかし、身・心(名色)の縁によって、業は適切な時に顕現する。

ちょうど、マンゴーの実は、マンゴーの木のどこかに蔵されているのではないが、しかし、マンゴーの木が、適切な季節を迎えたならば、開花して、実を結ぶが如くに。」

マンゴーの木が、マンゴーの実を実らせる、潜在的エネルギーはどこに蔵されているのか?

木の根?

枝?

幹?

木の葉?

このように考えを巡らせても無駄である。

マンゴーの木は適切な季節を迎えると、開花して、実を実らせる。

この事は、一切は因縁法であり、因と縁が具足した時、開花し、結実するが、そのような状況(+の下になければ)、<無>があるだけである(+という事を意味する)。

業もまた同じであって、我々が千年以上も前に造(ナ)した業が、今現在(+業が)熟していなくて、果報がないならば、それは因と縁が、いまだ熟していない、という事を意味する。

因と縁が具足する時、いかなる刹那においても、業は熟するのである。

(13-6につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>