<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
「業はどこに蔵されているのか?」
あなたはとても知りたいに違いない。
業に潜在するエネルギーを、我々は見る事ができない。
ちょうど、一粒の種が、因と縁が具足すれば、やがて芽を出すであろう、その潜在的エネルギー(+が、我々には、見えないのと同じように)。
「尊者、業はどこに蔵されているのか?」
尊者は答える:
「国王、業は刹那に生・滅する所の心識、または身体のどこかに蔵されている、とは言えない。
しかし、身・心(名色)の縁によって、業は適切な時に顕現する。
ちょうど、マンゴーの実は、マンゴーの木のどこかに蔵されているのではないが、しかし、マンゴーの木が、適切な季節を迎えたならば、開花して、実を結ぶが如くに。」
マンゴーの木が、マンゴーの実を実らせる、潜在的エネルギーはどこに蔵されているのか?
木の根?
枝?
幹?
木の葉?
このように考えを巡らせても無駄である。
マンゴーの木は適切な季節を迎えると、開花して、実を実らせる。
この事は、一切は因縁法であり、因と縁が具足した時、開花し、結実するが、そのような状況(+の下になければ)、<無>があるだけである(+という事を意味する)。
業もまた同じであって、我々が千年以上も前に造(ナ)した業が、今現在(+業が)熟していなくて、果報がないならば、それは因と縁が、いまだ熟していない、という事を意味する。
因と縁が具足する時、いかなる刹那においても、業は熟するのである。
(13-6につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>