<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
善悪の業を造(ナ)す時、その主因は、思心所である。
一人の人間の思心所が、どれ程に強いかによって、その人の業もまた、強くなる。
ちょうど、我々の手の中にあるボールが、強い力で壁に打つ付ければ、強い力で、己自身に戻って来るように;
思心所が弱い時、業力も弱い。
ちょうどボールを、小さな力で壁に向かって投げる時、戻って来る力が小さいが、しかし、己自身に向かって戻ってくる、というのと、同じである。
猟師可拉(=カーラ)の物語は、業を造る”思”の力を、物語っている。
可拉は、猟師であった。
ある日早朝、彼は一群の猟犬を連れて、猟に出た。
道で、一人の比丘が托鉢しているのを見た。
彼はこれは不吉な予兆であると誤解して、心の中で思った:
「この、人を嫌な気持ちにさせる、頭の禿げた人間に会うなんて!今日の収穫は台無しだ!」
その日、彼は、本当に、何等の獲物も得られなかった。
家に帰ろうとした時、彼は再び、あの比丘が、町から出て(+己の住居に)戻ろうとしているのを見た。
彼は怒りに燃えて、猟犬を放って、比丘に咬みつかせた。
幸いな事に、比丘は走るのが速かったので、木の上に登り、猟犬から身を守った。
猟師は木の下まで来ると、弓矢で比丘の脚裏を狙って、矢を放った。
比丘は足裏に、非常なる痛みを感じ、袈裟を保つことができなくなった為、袈裟が彼の手から落ちて、真下にいた猟師の上にかぶさった。
猟犬たちは、黄色の袈裟を見て、比丘が木から落ちてきたのだと誤解して、急いで駆け寄って、飛びついて、むやみやたらに咬みついた。
比丘は木の上からこの状況を見て、木の枝を一本投げ落とした。
その時初めて、猟犬たちは、己が咬んでいたのは比丘ではなくて、己の主人である事に気が付き、四方に逃げ散った。
猟犬が逃げた後、比丘が木から降りてみると、猟師はすでに、猟犬にかみ殺されていたのである。
彼は心中悲しく思い、また、猟師の死について、自分に責任があるのかどうかよくわからないでいた。
というのも、彼の袈裟が原因で、猟犬が猟師を攻撃したのだから。
彼は仏陀に会って、この問題を解決してもらおうと思った。
仏陀は彼を慰めて言った:
「あなたは、猟師の死に、責任を感じる必要はない。あなたは、道徳にも、戒律にも、違反していない。
実際は、猟師が、彼が傷つけてはいけない人を、恣意的に傷つけたその結果、このような悲惨な果報を、得る事になったのだ。」
仏陀は続けて述べる:
「無辜の人間を害する者は、逆風に砂を撒くように、最後には(+禍が)己自身に戻って来る。」
《法句経125》
(13-7につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>