Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

★飛び入り翻訳~『24縁発趣論』16-1

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

16 根縁(Indriyapaccayo)

根には、統括するという意味が含まれる。

この縁において、縁法は、その範囲内において、コントロール力を発揮して、縁生法を支える。

根縁は、名と色の二つに、分けることができる。

一、色根

色根は、眼根、耳根、鼻根、舌根、身根と命根が含まれる。

前の五根は、それぞれ眼浄色(眼浄根とも言う。他は類推の事)、耳浄色、鼻浄色、舌浄色と身浄色と呼ぶ。

根の一つひとつは、それぞれ、各自の領域を統括する。

たとえば、眼根は、目で見える範囲だけを、統括し、耳で聞く事のできる範囲を、統括することはできない。

前の五根は、それぞれに相応する所の、根識とその心所の根縁である。

それぞれが相応する所の根識とは何か?

たとえば、眼根に相応する根識は、眼識である;

耳根に相応する根識は、耳識である;

以下類推の事。

五根はまた、如何にして、それぞれ相応する所の、根識の心所の根縁となるのか?

識が生起する時、相応する心所もまた、同時に生起する為、心について語る時、必ず心所についても、語らなければならないのである。

眼根は眼縁の力で以て、眼識へのコントロールを実行し、またその相応する所の心所を、コントロールする。

たとえば、業が原因で、ある人が、生まれつき眼浄色が弱いとすると、目が物を見る時、曖昧模糊となってしまう。

眼浄色は、その(+己自身からくる所の)縁生法ーー眼識をコントロールして、物を見ても曖昧模糊となるようにする。

同様に、ある人が、生まれつき耳浄色が敏感でないという事があるが、それは耳浄色が(+己自身からくる所の)縁生法ーー耳識をコントロールしている為であり、この時、耳は聞こえにくくなる。

鼻根、舌根と身根もまた同様に類する事ができる。

このように、色根縁はその範囲内において、そのコントロール力によって、縁生法を支えているのである。

命根色:命根は、その俱生した所の業生色の寿命を維持している。

このように、命根色は縁法であり、それは食縁を通して、そのコントロール力によって、己自身と同時に存在する所の、一粒の色聚の中にある業生色、たとえば、目、耳、鼻、舌、身、性根及び心所依処等の、業生色聚の生命を支える。

有情一人一人の生命は、みな、この種の業生の命根によって維持されており、それがいったん終止するならば、これを「死亡」と言う。

その時、身体は、生命力のない、一個の死体となる。

(16-2につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay(2018年5月25日クムダ・セヤドーより

正式に初心者瞑想指導の許可を得る)