<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(三)喜禅支とは、目標を非常に好む事を言う。
ただ目標を好む時にのみ、心は目標の上に、留まることができる。
(四)楽禅支は、目標の内に楽を感じる事を言う。
心が目標に専注する時、楽受が生じる。
楽受がある時、我々は禅の修行において、長時間坐る事ができる。もし、まったくの苦受しかないのであれば、我々は、長時間座る事ができない。
(五)一境性禅支は、すべての名法を統一し、それらをバランスして、安般念の呼吸の上に安住せしめる。
もし、一境性禅支が、すべての名法を統一する事がないならば、それらは四散する為、心は散乱する。
こういう事から、それはすべての名法を、呼吸の上において統一し、心を集中せしめる。
(+我々の心は)集中して、初めて、力が発揮できる。
(六)憂禅支は不善心所であり、瞋根心と相応する。
たとえば、我々の心が、敵の事を思って懊悩する時、憂禅支において、その相応する心と心所は、敵の事を緊密に、思惟し続ける事になる。
(七)捨禅支は、善である場合も、不善である場合もあり得る。
一人の人間が、五禅支まで証得する事が出来た時、捨禅支は、その相応する所の、心と心所を平捨して、目標を密接に観察する。
捨禅支は、どのようにして、不善心と相応するのか?
一人の猟師が、平捨(+の心)で獲物を狙い、尋、伺、喜、一境性でもって、彼の心を目標に集中させる、この時だけ、彼の受は捨受である、と言う。
(17-3につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>