南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

★飛び入り翻訳~『24縁発趣論』17-2

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(三)喜禅支とは、目標を非常に好む事を言う。

ただ目標を好む時にのみ、心は目標の上に、留まることができる。

(四)楽禅支は、目標の内に楽を感じる事を言う。

心が目標に専注する時、楽受が生じる。

楽受がある時、我々は禅の修行において、長時間坐る事ができる。もし、まったくの苦受しかないのであれば、我々は、長時間座る事ができない。

(五)一境性禅支は、すべての名法を統一し、それらをバランスして、安般念の呼吸の上に安住せしめる。

もし、一境性禅支が、すべての名法を統一する事がないならば、それらは四散する為、心は散乱する。

こういう事から、それはすべての名法を、呼吸の上において統一し、心を集中せしめる。

(+我々の心は)集中して、初めて、力が発揮できる。

(六)憂禅支は不善心所であり、瞋根心と相応する。

たとえば、我々の心が、敵の事を思って懊悩する時、憂禅支において、その相応する心と心所は、敵の事を緊密に、思惟し続ける事になる。

(七)捨禅支は、善である場合も、不善である場合もあり得る。

一人の人間が、五禅支まで証得する事が出来た時、捨禅支は、その相応する所の、心と心所を平捨して、目標を密接に観察する。

捨禅支は、どのようにして、不善心と相応するのか?

一人の猟師が、平捨(+の心)で獲物を狙い、尋、伺、喜、一境性でもって、彼の心を目標に集中させる、この時だけ、彼の受は捨受である、と言う。

(17-3につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>