南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

★飛び入り翻訳~『24縁発趣論』17-3

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

上述の事から、禅は、心を所縁の境に、専注させる事であることが分かる。

通常、定を修する時に言う所の五禅支は、善に属する。

しかし、禅支はまた、不善である事もあり得る。

たとえば、我々が映画を見る時、尋と伺は、常に我々の心をして、映画の中の情景を追わせしめる;

喜禅支は、映画の情景に興味をもたしめる;

楽禅支は、心をして、映画を楽しむようにせしめる;

一境性禅支は、映画の情景に対して、心をして、非常に専注せしめ、心をして、その中に、沈潜せしめる。

五禅支は、我々をして、善業を為す時、または不善業を為す時に、精神を集中せしめるもので、それらが欠乏する時、善もまた、効率よく実行する事は出来ない。

以下は《法句経》にある物語であるが、上記の事柄を、明確に物語っているものである。

加羅仕達は、サーワッティ町の、長老比丘であった。

彼の甥も、出家して比丘になった。

ある時、この年若い比丘は、二枚の袈裟を手に入れた。

彼はそのうちの一枚を叔父に上げようと決めた。

彼が、袈裟を長老比丘に差し上げた時、長老比丘は、己の袈裟はもう十分に足りているといって、受け取るのを拒否した。

甥が悲しまないようにと思って、長老比丘は、年若い比丘に、うちわで風を送って貰うよう頼んだ。

しかし、甥は、長老が彼の事を嫌っているのだと誤解して、還俗して、世俗の生活を送ろうと、考えた。

その時より、彼の心念は、バラバラになり、情緒は混乱し、心中で思った:

還俗した後、この袈裟を売ってしまい、メスのヤギを買い、そしてそれを速くに育て上げれば、十分な収入になるに違いない。

妻をめとって子が生まれたら、妻子を連れて叔父に会いにこよう。その道々で、私は妻に、子供の面倒は自分がみると言うだろうが、妻は、彼に牛車を御して欲しいと頼み、子供は自分がみると言う(+だろう)。

そうやって、二人で争っている内に、子供が牛車から落ちて、車輪にひかれたので、彼は非常に怒って、妻の頭を棒でたたいた。

実際、この時、彼はまさに叔父のために、うちわを動かしていたにすぎず、彼が妄想を繰り広げた為に、なんと、長老比丘の頭を叩いてしまった!

五禅支が欠けている為に、この年若い比丘は、うちわであおぐ、という簡単な仕事さえも、円満に完成する事ができないのであった。

(18-1につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay(2018年5月25日クムダ・セヤドーより

正式に初心者瞑想指導の許可を得る)