<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
上述の事から、禅は、心を所縁の境に、専注させる事であることが分かる。
通常、定を修する時に言う所の五禅支は、善に属する。
しかし、禅支はまた、不善である事もあり得る。
たとえば、我々が映画を見る時、尋と伺は、常に我々の心をして、映画の中の情景を追わせしめる;
喜禅支は、映画の情景に興味をもたしめる;
楽禅支は、心をして、映画を楽しむようにせしめる;
一境性禅支は、映画の情景に対して、心をして、非常に専注せしめ、心をして、その中に、沈潜せしめる。
五禅支は、我々をして、善業を為す時、または不善業を為す時に、精神を集中せしめるもので、それらが欠乏する時、善もまた、効率よく実行する事は出来ない。
以下は《法句経》にある物語であるが、上記の事柄を、明確に物語っているものである。
僧加羅仕達は、サーワッティ町の、長老比丘であった。
彼の甥も、出家して比丘になった。
ある時、この年若い比丘は、二枚の袈裟を手に入れた。
彼はそのうちの一枚を叔父に上げようと決めた。
彼が、袈裟を長老比丘に差し上げた時、長老比丘は、己の袈裟はもう十分に足りているといって、受け取るのを拒否した。
甥が悲しまないようにと思って、長老比丘は、年若い比丘に、うちわで風を送って貰うよう頼んだ。
しかし、甥は、長老が彼の事を嫌っているのだと誤解して、還俗して、世俗の生活を送ろうと、考えた。
その時より、彼の心念は、バラバラになり、情緒は混乱し、心中で思った:
還俗した後、この袈裟を売ってしまい、メスのヤギを買い、そしてそれを速くに育て上げれば、十分な収入になるに違いない。
妻をめとって子が生まれたら、妻子を連れて叔父に会いにこよう。その道々で、私は妻に、子供の面倒は自分がみると言うだろうが、妻は、彼に牛車を御して欲しいと頼み、子供は自分がみると言う(+だろう)。
そうやって、二人で争っている内に、子供が牛車から落ちて、車輪にひかれたので、彼は非常に怒って、妻の頭を棒でたたいた。
実際、この時、彼はまさに叔父のために、うちわを動かしていたにすぎず、彼が妄想を繰り広げた為に、なんと、長老比丘の頭を叩いてしまった!
五禅支が欠けている為に、この年若い比丘は、うちわであおぐ、という簡単な仕事さえも、円満に完成する事ができないのであった。
(18-1につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay(2018年5月25日クムダ・セヤドーより
正式に初心者瞑想指導の許可を得る)>