<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(2)已に生じた悪は断じ除く
もし、悪法が已に生起したのであるならば、正しい方法を運用して、取り除かねばならない。
たとえば、あなたは車を買ったとする。あなたは新車に対して、非常に執着している。ある日、あなたが執着するその新車がぶつけられて、あなたは懊悩する。この時、悪法は生起するが、瞋恨というこの悪法を断じ除くために、あなたは如理作意を実践しなければならない。
車は無常なる法であり、生・滅の法であり、それは四大によって構成されており、あまり執着する必要はない、と作意する。
これが、悪を断じ除く一つの方法である。
もし、あなたが誰かに怒りを感じていると、悪法が生起する。
怒りを対治する方法は、慈愛を送る事である。
また、あなたは以下のように観じる事もできる:
「私の心に怒りが生じるやいなや、多くの瞋恨の速行心が過ぎ去って行った。それは今生の受業、次の生の受業、無尽の業を残す。これは恐ろしい事である!己の瞋恨は、コントロール(制御)した方がよい。」と。
このようにすれば、あなたは瞋恚を取り除くことができる。
この種の観想もまた、如理作意と言う。
仏陀が、いまだ正覚を成していない菩薩であった時、彼がいかにして精進して、生起した憂慮と恐怖を降伏したか、という話を述べた。
彼は言う:
「私が歩いている時、恐怖が訪れた。私は立ち止まらず、座らず、横にならず、歩きながら、<今・ここ>において、恐怖を取り除いた。
私が立っている時に、恐怖が訪れた。私は歩かず、座らず、横にならず、立ったまま、<今・ここ>において、恐怖を取り除いた。
私が座っている時、恐怖が訪れた。私は横にならず、立ち止まらず、歩かず、座ったまま、<今・ここ>において、恐怖を取り除いた。
私が横になっている時、恐怖が訪れた。私は座らず、立ち止まらず、歩かず、横になったまま、<今・ここ>において、恐怖を取り除いた。
《中部》
もし”正精進”がないならば、一人の人間は、痛苦から解脱する事はできない。
そういうことであるから、悪念が心中に生起したまさにその時、”正精進”によって、それらを放棄し、駆逐し、取り除く事は、非常に重要である。
もし、(+悪法が)瞬時に発見されて、コントロール(制御)されないのであれば、煩悩は力を蓄える為、それを克服する事は、難しくなる。
この種の力は、更に強化されて、我々の後天の性格になってしまうのである。
(18‐8につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。
<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay(2018年5月25日クムダ・セヤドーより
正式に初心者瞑想指導の許可を得る)>