<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
【ここにおいて、縁法ーー色所縁、縁生法の支えーー(+によって)眼門心路過程心と心所は生起し、かつ縁生法と同時に存在する時間内において、縁生法の継続的な存在を支援する】
我々は、一つの例を挙げてみようと思う。
我々凡夫の心内には、潜在的な煩悩ーー有身見が存在しているが、この煩悩は、継続的に、我々に随伴している。
我々は善い事をした時も、悪い事をした時も、有身見は、それ(”善行乃至不善行”)をば、”自我(atta、自分のもの)”と見做してしまう。
たとえば、あなたは凶行を行っている悪党を打倒したとする。
あなたは非常に喜んで言うに違いない:
「私は今日、ひとつ善い事をした!」
そして「それをしたのは”私である”」という考え、思いに、強烈に執着する。
またはあなたが、酒に酔って、朦朧としながら、女性にセクハラをしたとしよう。
目が覚めて、あなたは意気消沈して言う:
「私は間違いを犯した。私は許しがたい間違いを犯した!」と。
そして、”私が” という考え、思いによって、大いに苦悩するに違いない。
善行であっても、不善行であっても、有身見は、それらを”我がなした” という考えに、転換してしまうのである。
【ここにおいて、有身見は縁法であり、一切の ”それは私である(それは私のものである)”
という発想は、縁生法である。
有身見は、有縁(因縁有縁)の縁力の支えを通して、”それは私である、それは私のものである”という考え、思いを継続的に存在させる】
有縁は合計五種類ある:
俱生有縁、
前生有縁、
後生有縁、
食有縁と
根(色命根)有縁である。
実際は、有縁は、各種の異なる縁を、含むものである。
この点に関しては、次頁において、グループ分けの説明をする時に、明確になると思われる。
不離去縁は、有縁に似ている。
二者の違いは、有縁は法の生・住・滅の過程を支えるのに対し、不離去縁は、法の生・住・滅の過程の中で、完全に去る前に、支援を与える事である。
(22-1につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。
<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay(2018年5月25日クムダ・セヤドーより
正式に初心者瞑想指導の許可を得る)>