<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(問):「(āgamma、来る;・・・によって)という、この帰依によって、一切の苦を解脱する」という(+文言)において、この(文)と往趣が相い結合して、帰依の行いが成就する時、(それは一体)同一の使役動詞ではない、と言うのか?
(答):(そのようでは)ない。同じく、前に述べたように、過失の範囲である。たとえこの中に同一の使役動詞があるという状態であるとして、すでに心が撃破された者が、その上で、仏・法・僧に帰依するとしても、彼は一切の苦を解脱することができる。
これは前に述べたように、過失の範囲である。
我々の義理には過失はなく、故にこの(非難)は当たらない。
たとえば、「アーナンダ、すべての、私(のような、このような)善友の所に来る者、生の法の(+苦難に)(遭遇する)有情は、世尊(のような)(このような)善友の威力によって、解脱する(時がある)。」
(上記のようであるが故に)以下のように言う:「これによって帰依したならば、一切の苦を解脱する。」
これが、この部分の意趣である事を、理解しなければならない。
(3-1につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>