★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》2-7
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
業果報の観察
業について語るならば、必ずや、業の果報についても語らねばならない。
果報とは安定しているもので、不善果報は安定しているもので、善の果報も安定しているもので、道と果の果報もまた、安定しているものである。
熟睡している時の心は、何もしていない、などと思ってはならない。
熟睡時の果報心は、依然として、不断に生・滅しており、この時の果報心と、入胎した時の結生果報心は、同じものである。
もし、菩薩たちの入胎、入胎時の心が、智相応であるならば、すなわち、無貪因、無瞋因、無痴因の、高尚な結生果報心であるならば、菩薩たちの睡眠時には、同様の果報心が生起する。
たとえば、ある子供がいて、その子供の、入胎の時の、彼の心が、非常に活発であるならば、熟睡している時の心は、この心になる。
この果報心は、不安定であるか?
否、非常に安定している。
結生の時、若し、心の状態が、非常に、喜びに溢れたものであれば、熟睡している時、この心を支える事を喜ぶ・・・その為、顔に、和やかさと喜悦が、浮かぶ。
私はよく人を観察するが、ある種の人々は、結生の時、特に嬉しいとも、嬉しくないとも思わない、すなわち、捨の状態であるが故に、熟睡している時も、和顔・喜悦の色が浮かぶ事はないし、また、瞋恚の表情もなく、ただ、普通の表情であるに過ぎない。
このように、我々は、色々な方法を用いて、人々を観察することができる。
我々は、この殊勝な方法を用いて、自分の子供を観察することができる。
一人の子供が、もし、歓喜の心、智慧と相応した無痴心で入胎したならば、この子供は非常に賢く、容姿もまた非常に秀麗で、活発である;
もう一種類の子供は、顔貌は特殊ではなく、非常に普通で、智慧もない場合、我々は、この子供が、どのような心識で入胎したのか、想像する事ができる。
これら熟睡時の心、入胎の時の心、及び日常生活における、目標を持たない所の、非常に多くの心識流は、皆、果報心に属するが、それは過去に造(ナ)した業の果報心なのである。
もし、熟睡の時に、ひとつも夢をみないのであれば、これは果報心であり、非常に安定しているものである。
果報心の特徴は、すなわち、安定である。
ちょうど大樹の下で涼む人間に、サワサワと涼しい風が吹いて、非常なる清凉を感じて、満足するが如くである。
果報心は、不活発であり、活動的なエネルギーを保有していない。
果報心は、安定的な状態にある時、その他の心、心所もまた安定する。
果報心は、その他の心と心所に伝える:
「私の安定度に合わせて、あなた方もまた安定していなさい。」
心と心所もまた、応答する:
「はい、我々もまた、あなたと同じ様に、安定します。」
この種の安定、清凉の気分は、お互いに感染し合うが、しかし、これは涅槃の清凉を、言うのではない。
不善果報もまた同様である。
畜生道にある衆生の、その熟睡時の果報、たとえば、子猫が熟睡している時、それは、不善果報ではあるものの、しかし非常に安定している。
これらは皆、果報縁である(注8)。
(注8)果報縁:
この縁の縁法は、それと同時に生じる所の縁生法をして、受動的で不活発であるように保持する。
この縁の縁法は、果報心と心所である;
縁生法もまた、当該の果報名法と、俱生色法である。
諸々の果報心が、業が熟する事によって生じる為、それらは不活発であり、受動的である。
このように、熟睡者の心には、果報有分心が連続して不断に生・滅しているが、それは、身・口・意の業を造(ナ)すには至らないし、また、はっきりと目標を知覚する事もない。
同様に、五門心路過程の中の果報心は、それらの目標を、認識する力はない。
ただ、速行の段階においてのみ、(+心は)目標を、しっかりと認識する。
という事は、速行の段階において初めて、業を造(ナ)す事ができるのである。《アビダンマ概要精解》。
(2-8につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>