南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》2-7

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

業果報の観察

業について語るならば、必ずや、業の果報についても語らねばならない。

果報とは安定しているもので、不善果報は安定しているもので、善の果報も安定しているもので、道と果の果報もまた、安定しているものである。

熟睡している時の心は、何もしていない、などと思ってはならない。

熟睡時の果報心は、依然として、不断に生・滅しており、この時の果報心と、入胎した時の結生果報心は、同じものである。

もし、菩薩たちの入胎、入胎時の心が、智相応であるならば、すなわち、無貪因、無瞋因、無痴因の、高尚な結生果報心であるならば、菩薩たちの睡眠時には、同様の果報心が生起する。

たとえば、ある子供がいて、その子供の、入胎の時の、彼の心が、非常に活発であるならば、熟睡している時の心は、この心になる。

この果報心は、不安定であるか?

否、非常に安定している。

結生の時、若し、心の状態が、非常に、喜びに溢れたものであれば、熟睡している時、この心を支える事を喜ぶ・・・その為、顔に、和やかさと喜悦が、浮かぶ。

私はよく人を観察するが、ある種の人々は、結生の時、特に嬉しいとも、嬉しくないとも思わない、すなわち、捨の状態であるが故に、熟睡している時も、和顔・喜悦の色が浮かぶ事はないし、また、瞋恚の表情もなく、ただ、普通の表情であるに過ぎない。

このように、我々は、色々な方法を用いて、人々を観察することができる。

我々は、この殊勝な方法を用いて、自分の子供を観察することができる。

一人の子供が、もし、歓喜の心、智慧と相応した無痴心で入胎したならば、この子供は非常に賢く、容姿もまた非常に秀麗で、活発である;

もう一種類の子供は、顔貌は特殊ではなく、非常に普通で、智慧もない場合、我々は、この子供が、どのような心識で入胎したのか、想像する事ができる。

これら熟睡時の心、入胎の時の心、及び日常生活における、目標を持たない所の、非常に多くの心識流は、皆、果報心に属するが、それは過去に造(ナ)した業の果報心なのである。

もし、熟睡の時に、ひとつも夢をみないのであれば、これは果報心であり、非常に安定しているものである。

果報心の特徴は、すなわち、安定である。

ちょうど大樹の下で涼む人間に、サワサワと涼しい風が吹いて、非常なる清凉を感じて、満足するが如くである。

果報心は、不活発であり、活動的なエネルギーを保有していない。

果報心は、安定的な状態にある時、その他の心、心所もまた安定する。

果報心は、その他の心と心所に伝える:

「私の安定度に合わせて、あなた方もまた安定していなさい。」

心と心所もまた、応答する:

「はい、我々もまた、あなたと同じ様に、安定します。」

この種の安定、清凉の気分は、お互いに感染し合うが、しかし、これは涅槃の清凉を、言うのではない。

不善果報もまた同様である。

畜生道にある衆生の、その熟睡時の果報、たとえば、子猫が熟睡している時、それは、不善果報ではあるものの、しかし非常に安定している。

これらは皆、果報縁である(注8)。

(注8)果報縁:

この縁の縁法は、それと同時に生じる所の縁生法をして、受動的で不活発であるように保持する。

この縁の縁法は、果報心と心所である;

縁生法もまた、当該の果報名法と、俱生色法である。

諸々の果報心が、業が熟する事によって生じる為、それらは不活発であり、受動的である。

このように、熟睡者の心には、果報有分心が連続して不断に生・滅しているが、それは、身・口・意の業を造(ナ)すには至らないし、また、はっきりと目標を知覚する事もない。

同様に、五門心路過程の中の果報心は、それらの目標を、認識する力はない。

ただ、速行の段階においてのみ、(+心は)目標を、しっかりと認識する。

という事は、速行の段階において初めて、業を造(ナ)す事ができるのである。《アビダンマ概要精解》。

(2-8につづく)

   <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>