<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
「雑穢語(samphappalāpa)」--これは、不善の思でもって、身と口において加行を生起せしめ、意味のない表現をするものを言う。
おこなわれた(雑穢語)が比較的遅鈍【軽い】である場合、小罪となる:
それが比較的【強い】場合は、大罪となる。
この(雑穢語)には、二種類の構成要素がある:
「バーラタの戦い、シータ姫の誘拐などの(物語)のような傾向を持つ、意義の無い論題、及び同傾向の言論。」
貪欲は「貪(abhijjhā)」であり、すなわち、他人の財物を見た後、それらを(擁したい)という傾向を生起させる義である。
その特徴は、以下のように思って、他人の財物を貪欲に取る事である:「おお、(もし)これが私のものであれば、どれほどよい事か!」
(貪の)小罪と大罪は、不与取(でのべたもの)と同様である。
この(貪)には、二種類の構成要素がある:「他人の財物である事
、及び己自身に属するように(+と願う)傾向を持つことである。」
ただ他人財物を基礎として、貪念が浮かぶだけでは業道は成立しないが、己自身の(属して欲しい)、すなわち、「おお、(もし)これが私のならば、どれほどよいことか!」という(+心)の傾向を持つとき初めて、(業道になる。)
利益を障碍する事(と)快楽は「瞋(byāpādo)」である。その特徴は、他人の意念を消滅する過失である。
(瞋の)小罪と大罪は、粗悪語(で述べたものと)と同様である。
この(瞋)には、二種類の構成要素がある:「その他の有情(+の存在)、対象を害したいという思念」
その他の有情を基礎として、憤怒を生起させるだけでは、業道にはならない。対象に対して損壊の思念が(生起した時):すなわち、「おお、もし(彼が)刺されたり、消滅したりしたら、どれほど良いか!」などと思う時初めて、(業道となる)。
如実に(+事実を)掌握していないが故に、所見に錯誤のあった時、それを、「邪見(micchādiṭṭhi)」と言う。
その特徴は、「布施はない【布施には果報がない】」などの方式の見顛倒である。(邪見の)小罪と大罪は、雑穢語(で述べたものと)同様である;また、非決定的な(邪見)は小罪であり;決定的なものは大罪である。
この(邪見)には、二種類の構成要素がある:「顛倒の方式でもって、事物に対応し、その対応によって、それらが(心中において)現起(現象)する。」
(4-1につづく)
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>