<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
一番目の速行心の果報の状態
一番目の速行心は、力が非常に弱い為、その果報は、現前の、この一生においてのみ、現起(現象)する。
もし、果報が、この一生において現起(現象)しないのであれば、それは、無効業となる。
無効業とは、何の果報も齎さない業の事である。
しかし、一番目の速行心は、まったく果報の感得と無関係なものであろうか?
否である。
善なる事をなしたならば、一番目の速行心は、その作用を発揮して、善果を感得する。
たとえば、私は度々、仏法に関する著作をしたためるが、故に、私は、非常に深く三宝を尊重・尊敬している。
なぜであるか?
というのも、このような思心所は、我々を保護してくれて、種々の罪障を取り除いてくれるからである。
これは、一番目の速行心が果報の作用を生じる所の、一つの例である。
貧乏な摩訶度とカカウリヤは、阿羅漢に供養した後、現生(=現世)で、大富豪になった。
これは、清浄なる阿羅漢が、入定した後に托鉢に行った事が原因である。
阿羅漢の心は、比べるもののない程清浄であり、かつ安止していて、また、供養の品も、如法に得たものであるが故に。
このように、一番目の速行心が作用を生じ、布施した者に、現世において、大富豪になる果報を齎したのである。
ただし、このような状況は、めったに発生しない。
もし、一番目の速行心の力が、その果報を現起(現象)させる程の力を有しないとき、それは、過去の造(ナ)した所の業と組んで、果報を現起(現象)させる。
たとえば、小川があって、大雨が降ると、上流の水に雨水が加わり、勢いのある大きな流れに変化するようなものである。
もし、小川の水だけであるならば、ただ静かに流れているだけであるが、雨水が加わる事によって、各種の姿態を持つ波が生起する、という訳である。
過去の業は河の流れのようで、現在の業は雨水のようである。過去の業に、現在の業を重ねると、雨水が河に流れ込むように、一番目の速行心は、果報を生じる事ができるようになる。
そうでない場合、現生の、非常に混乱した所の一番目の速行心の大多数は、果報を産まない無効業になるのである。
(2-11につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>