<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
五個(2~6)の速行心の果報の状態
第二番目から第六番目の、真ん中の速行心の(+その速度は)、急でもないし、ゆっくりでもない。
この、中間の五個の速行心における、善または不善なる業は、いまだ涅槃を証していない所の、未来の世において、そのどれもが、果報を熟させる機会を有している。
(+それらは)絶対に、どこそこの世において熟す、という(+決定的機能は)有しないが、しかし、因と縁が揃った、その世において、熟す事になる(=熟して果報を齎す)。
我々は過去世において、重大な善・悪業を造(ナ)
してはいないであろうか?
よく考えてみようではないか。
もしあるのであるならば、それは、結生する事それ(+自体)が、果報である。
それ以降にまた果報が生じるならば、それは単独では生起することはなく、過去の五個の速行心と業が一緒になって、果報を生じせしめる。
これが、善業を造(ナ)す人には、非常に多くのよい果報が得られ;
不善業を造(ナ)す人には、善の果報を生起せしめるなんらの力もない事を、物語っているのである。
善には善報あり。
我々は、過去の無数の生(=世)における業力を持っていて、一つ一つの生(=世)において、一回指を鳴らすその一瞬の間に、無数億の五個(2~6)の速行心による業が生じている訳であって、これは相当に、観るべきものがあるのである。
僧衆であっても、在家居士であっても、数えきれない程の、五個の速行心の業がある。
しかし、その果報はどのようにして、生じるのであるか?
この五個の速行心の果報は、第三番目の世(=生)から、未来において涅槃する前までの、すべての生命期の中において、成熟するチャンスを擁するのである。
時機が熟すると、果報は生じ、時機が熟さなければ、果報は現前に生じない。
それは結生の果報になる事もあれば、結生から、その一期の生命の終焉までの、なんらかの果報であることもあり得る。
たとえば、仏陀と阿羅漢たちは、清涼なる涅槃を得た後、彼らは、依然として非常に多くの、五個の速行心による業を残したが、しかし、これらの業は、無効業なのである。
我々は今、三種類の果報の状況を理解した:
一番目は「現生受業」で、それは一番目の速行心によって、生じる果報である。
二番目は「次生受業」で、それは第七番目の速行心によって、生じる果報である。
三番目は「後々受業」で、それは中間の五個の速行心によって、生じる果報である。
すべての有情は、非常に多くの、「後々受業」を擁しており、業を造(ナ)した三番目の生(=世)から始まって、未来において涅槃を証悟する前まで(+の生において)、因と縁が熟しさえすれば、それは即刻、果報を生じせしめるのである。
(2-13につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>