南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》2-13

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

重業(garukakaṃママ

重業とは、非常に大きな業の事である。

善業の場合で言えば、たとえば、禅定を得た所の・・・今生において禅定を得た人の、その次の生は、絶対に善なるものであり、それは、梵天に生まれ変わる事のできる業であり、これは非常に重大な善業である、と言える。

不善業の場合は、父母を殺す等の五逆の罪を言う。

この種の重業の果報は、必ず生起するもので、果報は彼をして、無間地獄へと落とすし、また、それを阻止できるいかなる業も、存在しない。

提婆達多は、この例である。

というのも、彼は、仏の身体から血を流さしめ、故に、無間地獄に落ちたのである。

どのような善業をもってしても、彼が地獄へ落ちる事を、止める事はできなかった。(+善業は)ただ、地獄で受ける苦しみを、一時的に、軽くする事が出来るだけである。

善業と悪業、双方ともに、果報を齎す。

重業の、思心所の第七番目の速行心は、その場で止まるという事は不可能であり、必ずや、当該の果報が、次の生で熟すのを促すのである。

そうであるから、我々はしっかりと考えなければならない:

我々には、善の方面における重業があるであろうか?

今の所は、ない;

悪業の方面における恐怖の重業は、あるであろうか?

ない。

そうであるならば、我々は、我々の未来の生において、重大な善業の果報も、悪業の果報もないのだと言える。

(2-14につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》  中国語版→日本語訳出

 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>