般若の独り言~終わりの始まり
一番最初、日本に、緬甸(ミャンマー)の瞑想方法が入って来たのは、何時頃の事でしょうか?
書店に『緬甸の瞑想』という本が並んだ時、真っ先に買って読みましたが、確か40年くらい前の事だった、と思います。
それは、自分の身体と心に生起する<感覚><思い>に、次々とラベリングする<ラベリング瞑想法>でした。
私が次に、緬甸の瞑想に出会ったのは、20年前、台湾での事でした。
台北の、在家居士仏教協会主催のパーリ語教室に通っていた私に、一人の若い女性が「おばさん、あなた、テーラワーダがお好きなようですけれど、これ如何ですか?」と言って、パオ・セヤドーの『智慧之光(智慧の光)』を、手渡して下さったのです。
最初の部分を読んで、息が止まるかと思いました。
そこには、名(心理現象)と色(身体、物質)の、無常・苦・無我を観察する目的と方法が、余すところなく、書かれていたからです(『緬甸の瞑想』は、そこまで深い事は書かれてありませんでした)。
人は言います:
『パオ・メソッドは難しすぎる。』
『一体、いつになったら智慧の光(nimitta)を得られるのやら・・・、気が遠くなる。』
『いつ手に入るか分からない nimitta を望むより、いますぐ出来る瞑想法、ラベリング法でもいい、手を動かす手動瞑想法でもいい、息を吸って微笑み・・・というハン師でもいい・・・、なんでもいいじゃないか。』
しかし、私はこう思うのです。
パオ・メソッドに取り組んでも、nimitta がでない・・・それならば、他の瞑想法をやってみよう。
それも一つの行き方です、反対はしません。
しかし、あなたが、煩悩に振り回される苦しみ、生・老・病・死の苦しみから抜け出したいのであれば、どうしても<無常・苦・無我>を知らねばなりません。
nimitta(=禅相・智慧の光)を得て、そこから先、あなたが如実に<無常・苦・無我>を観ずる時、それはあなたが、生・老・病・死から抜け出す事、あなたの生・老・病・死の、終りの始まりなのです。
色々な瞑想方法に取り組んだとしても、いつの日か、無常・苦・無我を知る事がないならば、それは人生修行の、単なる過程の一つ、寄り道の一つに過ぎないのです。
パオ・メソッドでは、初心者からみて、nimittaの生起が最初の目標、一里塚になります。
そしてそれは、苦しみの終わりの始まりなのです。
朝夕、安般念を修習しても、nimitta が得られない人も多いかと思いますが、それでも、終わりの始まりの、その始まりの始まりは、始まっているのです。
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院/Pañña-adhika Sayalay 般若精舎>