南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》2-22

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

アラータ(Alāta)将軍の物語

国王は、ウクナの説法に対して、心を集中して、熱心に考えた。

この時、国王と一緒に随行して来たアラータ将軍が、(+ウクナの説法を)ここまで聞くと、以下のように言った:

「大師のおっしゃる通りです。

大自然の定律は、変えることのできないものです。それは正しい。衆生の生命は、自然の定律に沿って展開するのであって、善業または悪業の影響を受けない。

私は、私の前世を覚えているが(宿命智の事、ただし、彼はただ一生だけ見る事ができた)、名をビンカラと言い、牛を殺すのが仕事であった。あの時、私は牛を殺すだけでなく、他にも多くの動物を殺した。

私は死後、将軍府に生まれ、今、将軍職についている。

私が前世において牛を殺した業は、果報を齎さない。

もし、ある種の人々が言うように、因果業報というものがあるならば、牛を殺すのを職業にしていた男が、なぜ、将軍になるという果報を得る事ができたのか?

なぜ、地獄に落ちて苦しみを、受けなかったのか?

みなさん、私は地獄になぞ落ちていない!

その上、私の家族は皆、将軍になっている。」

将軍のこれらの言葉は、因果業報を否定していることになる。

先に、彼がなぜ将軍になり得たのか、という事を解説する。

それは、彼の多くの生の、その以前、迦葉仏の時代、彼は阿那洒花の花飾りでもって、仏塔を供養したことがあった。

その時仏塔を供養した善業(已作業)は、即刻果報を生じせしめることはなかった。

それはちょうど、灰に埋められた燃える炭のようであった。

彼が前世に輪廻した時、すなわち、牛を殺すのが職業であった時、殺業を造(ナ)したけれども、彼が臨終の時に、仏塔を供養した善業の因と縁が熟して、果報を生じせしめた。

仏塔を供養したという善因の故に、彼は、高貴な将軍の種族に生まれたのである。

過去生の善業は覆いかぶされ、牛殺しの一世において、因と縁がようやく熟した。

その後、牛殺しの不善業は、また覆いかぶされたが、未来において、この不善業の果報は、必ずや熟すであろう。

このアラータは、デイバダッタの過去生であり、前世の牛殺しの男が、今生では、将軍になったのである。

国王は、業果の原則を理解しないが為に、裸体外道ウクナの論点を、更に強固に肯定してしまったのである。

(2-23につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>