★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》2-35
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
善業の実践
この物語から、我々は、仏教の教法の中において、現在
造(ナ)した善業の果報は、現世で熟すとは限らない;ただ重業の、その果報だけが、次の世において熟すのだと言う事が、決定的に言えることが分かる。
重い善業とはすなわち、禅定を修習する善業を言い、この種の善業は、疑いなく未来において、果報を生じせしめる;
重い不善業は父親殺し、母親殺し、阿羅漢殺し、サンガの和合の破壊、仏の身体の血を流させる等の五逆罪である。
これらの悪業は、疑いなく、悪道へ落ちる果報を引き起す。
その他の業は、熟す時期を待って、ようやく果報を生じせしめる。
今生において、我々は、善の果報の時機と、因と縁を善く把握して、己自ら、他人には替って貰えない所の種々の善行を、身をもって、実践しなければならない。
《発趣論》において、業縁は、果報縁に付き従って、果報をして、熟せしめるものであると言う。
業縁と果報縁は、時節因縁が熟して初めて、果報は現起(現象)するのである。
この部分は明日、お話する。
Nān āppakār a ṭh ān āni bodhit ānettha mininā
Anantanayapa ṭh ānam
vande anantagocaraṃ(原文ママ)
礼賛
この意味深い《発趣論》の内において、無上の牟尼と称号される大覚世尊は、因縁、所縁縁等の諸法でもって、先に、一切知智によって、遍知した後、一切の衆生にも、これらの法義を知らしめた。
私は一生のうちに一度、このような得難き殊勝なる教えに、出会う事が出来た。
誠心稽首し、無辺なる智慧を有する仏智に礼拝する事によって、初めて広大で奥深い《発趣論》に遊ぶことができる。
(3-1につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>