<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
第二章 業縁と果報縁(二)
持戒と布施
次に、「業縁と果報縁」について、詳しく説明する。
三宝門の内、もし「業と業果」について、善く掌握しないのであれば、どのような事柄も、目標に到達することができない。
あなた方法師は、法師であるならば、必ず「業と業果」について、よく理解しなければならない。
そうして初めて、善法の内に生きることができる;
三宝を護持する優婆塞、優婆夷たちもまた「業と業果」を、理解しなければならない。
一般的に、仏教徒は「業と業果」について、よく理解しておらず、また理解しようとはしない。
故に、彼らは、己のなすべき事について、ただ布施をすればよいのだと思い込んでおり、「業と業果」のうちで、布施よりも大事な事は、持戒であるという事を、理解しない。
実際、我々は、いついかなる行動においても、たとえば、売買、商売、人的交流などにおいて、みな持戒が、基礎となっているのである。
戒の基礎の上に、己の出来る範囲で、または己の興味のある事柄について、布施をするのであれば、その感得する所の果報は、更によいものになるであろう。
もし、ある人が、完全に持戒をしておらず、もっぱら布施だけするのであれば、このような人が(未来において)生を得て善に趣く事は難しいと思われる。
善心の重要性
私個人は、常に、以下のように考えている。
法師たる我々は、時代の要求に従って、法義を教授しなければならないし、また、そのような心がけをもって、授業をしている。
先ほど、法師方が朗誦した偈頌の中に、もし、持戒を修行の基礎にしないのであれば、その修行は進展しないであろうと、述べられている部分があった。
持戒とは、仏法を学ぶ基礎である。
三宝のうちにおいては、善心をば、まず尊ぶべきである。
善心がないのに、出家するという事は、間違った行為である。
比丘になりたい人も、沙弥になりたい人も、善法を生じせしめる事のできる善心を、第一におくべきである。
まず、善心が第一である事。
しかし、善心をもって、何をなすべきか?
二番目に来るのは、持戒である。
10番目になって初めて、経典の研究が登場するのである。
一般の人々もまた、このようでなければならない。
己自身に、善心が生じるよう、努力しなければならない。
貪心が重い人は、己の貪心を減らすよう学び、努力しなければならない;
瞋心が重い人は、己の瞋心を減らすよう学び、努力しなければならない。
驕慢(māna)心が重い人は、己の驕慢心を取り除く努力をし、また嫉妬心(issā māccahariya)も、それが無くなるまで、努力しなければならない。
これが実践できて、初めて、「善」の心(+を持った)という事が出来る。
この善心の基礎の上に立って、己の能力の範囲内で、出来るだけ布施をする事、特に、貧苦の人々に対して、布施をするのがよい。
先に布施による福を修し、その後に、その他の法門を修習(bhavana)をする。
(3-2につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>