Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》3-6

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

業力が残すエネルギー

Santānetaṃ kammaṃ nāma na 

nirujjhati sabbaso

Savisesaṃ nidhetv āpi samayami vipaccituṃ(ママ)

衆生の身・心(蘊流:生・滅する名色法)において、善であったり、悪であったりするこの思心所ーー業は、自然の法則により、因と縁の生・滅に従って(+生・滅するものの、それは決して)完全に、徹底的に、空で無なる状態にまで、消失する訳ではなく、それは、己自身(有情の生命?)の存在の基礎とする為に、鋭利で確実なエネルギー(業力)の真髄(業縁)を、蘊流の中に潜伏する。

名色法は、因と縁の消失に従って消失するものの、しかし、思心所は、潜在的余力を保つという状況に対して、我々は、深く思惟するべきである。

蘊流の中に潜在する業力は、たとえば、父母が子供に残す影響力のようである。ある種の父母の影響力は、子供の一生において、その人格に影響し、子供を見ると、父母の影を見ることができ、皆は、彼の父母が誰であるかを知ることができる。

これは父母の影響力が子供の上に残留したのだ、と言える。

しかし、ある種の父母は、子供に全く影響を及ぼさない場合もある。

もう一つ別の例では:

もし、帝釈天王が死んだならば、別の天人ではなく、必ずや、彼の長男が王位を引き継ぐであろう。

なぜであるか?

これこそは、彼が長男に残した潜在力であり、潜在力とは、なにか実体のあるモノではなく、一種の力を言う。

どのような状況の下でなら、エネルギーは残留するのであろうか?

熟睡している時の心は、夢さえ見ていないが、この種の心の生・滅は、身体上に、何等の潜在力を残す事はない。

熟睡の心は、流れ流れて、各種の(+もやもやとした)状態を見ることはできる。心は不断に生起しているものの、しかし、この心は頼りなく、専注力もなく、故に何等のエネルギー、潜在力を残すことはない。

我々が今、説法をし、また聞法をしている心、その速行心はすでに滅し去ってはいるものの、聞法と説法(+によって生じた)所の、潜在的エネルギーとは、異なるものである。

それが残す効用とは、機縁が熟した時に、果報を生じせしめる、という事である。

このエネルギーは、単独では果報を生じせしめる事は出来ず、多くの因・縁の条件の助力によって、初めて果報は生起するのである。

前に述べたように、唯一「重業」のみが、いかなる因と縁も必要とせずに、果報は熟して現起(現象)するのである。

不善法では、たとえば、父親殺し、母親殺しの「重業」は、その他の助縁を必要とせず、彼をして無間地獄に落しめるに十分なのである。

これは、父の恩は山より重く、母の徳は海より深いからである。

父母の子女に対する恩徳は特別に重く、(+父母は子供に対して)細かく気配りしているものであって、父母を殺害する者の、その行為が残すエネルギーは非常に強く、彼をして無間地獄に落としてめて、苦を受けさせる事になるのである。

善業に関しては、たとえば、すでに禅定を得た業、この生で禅定を得た人は、次の生の果報は、必ずや善であり、これは非常に大きな善業となるものである。

もし重大な善業ではないならば、時節、因・縁が熟した後初めて、果報は現起(現象)する。

この種の業力は、すなわち、蘊流の中において潜伏するエネルギーである。

衆生の身・心において、この善いか、または悪い思心所ーー業は、自然の法則によって、因と縁に従って、止まる事無く、生・滅、生・滅し続けているのである。

しかし、その生・滅は、完全に、徹底的に消失するのではなくて、業に属する所の思心所が残す、潜在的な余力は、機縁が熟すのを待って、果報を現起(現象)せしめるのである。

思心所は、衆生の蘊流の内にエネルギーを残留させた後ようやく、生・住・滅の準則に従って、滅し去るのである。

善哉!善哉!善哉!

(3-7につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>