<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
諦波羅蜜(saccā pāramī)
諦波羅蜜は、話される言葉がすべて真実である、事を言う。
話す事、為す事が皆、真実である。
仏陀がいまだ、仏になっていない以前、不断に諦波羅蜜を累積し、仏陀に成ったこの一生において、諦波羅蜜は、已に円満した。
諦波羅蜜のエネルギーが、蘊流の中に保たれているために、諦波羅蜜は円満する事ができたのである。
もし、エネルギーが溜まる事無く、只管(+身・心が)生・滅するだけであるならば、諦波羅蜜が円満する可能性はない。
このことからも、波羅蜜の円満は、エネルギーの残留があるが故である事が、分かる。
私の一生における行為は、みな、智慧と相応した善業である。
私は、どのように法話すればよいか、どのように書けば、法師および居士の方々に、容易に理解して頂けるか、常に考えている。
このように思考する事は、慧波羅蜜であり、その思心所は、すでに滅し去っているものの、エネルギーは蘊流の中に残留している。
私の生命における輪廻の内に、いまだ涅槃を得ない前、役に立たない、馬鹿で愚かな低賎なる果報を、決して得ることはないであろう。
私が薫習して来たのは、すべて智慧と相応した善業であるため、今生においては、このような私に、なる事ができた。
以上の事を理解する事は非常に重要である。
(3-10につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>