<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
重業、臨死業(=臨終業)、
慣行業(=習慣業)による果報の生じ方
過去世における、どのような業であっても皆、今生での重業(garukaṃ)の果報(+の生起)を、止める事はできない。
もし、今生において、善なる重業がある時、たとえば、禅定(jhāna)を得るなどであれば、臨終の時、疑いもなく、それに相応する定の境が、現前する。
反対に、重大な悪業、父親殺し、母親殺し、阿羅漢殺し、サンガ和合の破壊、仏身の流血等の五逆罪は、臨終の時、疑いもなく、これらの境が現起(現象)し、彼をして、無間地獄に落としめる。
このような重業は、我々は目下の所、絶対に擁していない(+ようである)。
臨死業
我々にもし、重大な善、悪業がないのであれば、臨死業(āsannakaṃママ)の果報が、優先的に生じる。
臨死業とは何か?
過去に造(ナ)した所の善業、たとえば、布施、持戒、聞経、聞法などなどの、善業である。
通常、我々には、重大な善業も、重大な悪業もない場合が多いものであるが、その時は、臨死業に従って、結生する確率が、非常に高くなる。
慣行業
もし、我々の、この一生の臨終において、どのような臨死業もないのであれば、我々は、この一生の間になした、習慣的行為の慣行業(āciṇṇakaṃママ)によって、結生する。
法師方の慣行業とは、法の実践、法の理解に関する修行、厳密な持戒、経典の教授と、仏法の宣揚等、<正法の久しく住むため>の護法が、法師方の、慣行業である。
居士たちの慣行業は、何であろうか?
毎日、僧(=サンガ)に供養し、花を供え、仏に礼拝して、各種の功徳を行う、これらは居士方の、慣行業に属する。
臨終の時、もし他に、何らかの臨死業がないのであれば、我々はこの一生における習慣的行為・・・慣行業によって、結生する。
不善の非功徳なる業、たとえば、畜生の殺害を生業としていた、他人の財物を偸盗した、他人の家庭を侵犯した、名誉・利益の為に、詐欺をしたなど等の、不善なる行為は、すなわち、非功徳業である。
たとえば、ある人が、非功徳的な行為でもって、生業を経営していたならば、この人間の臨終の時に、もし、善と不善の臨死業が、出現しないのであれば、疑いもなく、今回の人生における、非功徳慣行業に従って、結生する。
法師であっても、居士であっても、常に復習し、「業」について、よく理解しなければならない。
上に述べた「重業」、「臨死業」、「慣行業」という、この三種類の業は、皆、現生で造(ナ)した所の、「業」に属する。
これ以外に、我々が、一生の内で造(ナ)す「業」というのは、はそれほど多くはない。
臨終の時に、この三種類の内の一つの業もない時、過去の無始なる劫より、我々の心識流の中において付き従っている所の、無意(=無意識)の業が、果報を生じせしめて、我々をして、もう一つ別の一期の、新しい生命へ向かうようにと、引導するのである。
(4-3につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājem>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>
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