南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》4-3

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

来世の幸福

皆さんに覚えておいて欲しい事:

来世の幸福は、必ずや、今生の努力によって、功徳業を累積する事でしか得る事ができない。

もし、今生において、しっかりと、清浄なる功徳業を累積したならば、我々は安心することができる・・・来世において幸福ーー善趣を得る事ができる、と。

業相の現起(現象)の状況

人が死ぬ時、今生の各種の行為を思い出す。

すなわちそれは、今生に造(ナ)した業の状況であるが、それを業相(kammanimitta)と言う。

たとえば:

布施・供養が好きで、過去に道場を建造して、三宝に布施した人事のある人は、臨終の時に、己の造(ナ)した功徳の行為を思い出すが、その事によって、善の思心所が、不断に生起する。

この時の心情は、布施を修していた当時と全く同様に、喜悦に満ちたものであり、これが彼の、業相である。

もし、過去に造(ナ)したのが殺業であれば、臨終の時に、殺生の業の状況が現前する。

これは業相であり、業相は、業ではない。

業相とは、造(ナ)された業によって、現起(現象)する境のことを、言うのである。

ある種の人々は、臨終の時、種々の、非功徳の業相が、出現する。

ある時は、神智が朦朧として、失神してしまう事もある。その時に、他人が色々とでたらめな話、悲しい話をすると、また目が覚める。

目が覚めると、今生における、己の良くない行為の状況を思い出して、懼れ、恐怖と悲哀を感じるのである。

ある種の人々は、一生善を行い、臨死の時の昏迷状況の下で、種々の功徳の業相が現前し、目が覚めた時は、比類のない喜びを感じる。

ある種の人々は、はっきりと己の来世、どこに行くかを観ることができるーーこれが趣相である。

ちょうど須那尊者の父親のように、須那尊者が彼のために仏塔を建立してあげた事が原因で、彼が犬にかまれ、食べられてしまう趣相があったとしても、その趣相が、天女を観る趣相に変り、地獄相から天堂(=天界)相に転じた、あの物語のように。

こうしたことから、趣相(gatinimitta)は、来世に生まれる場所と関連する境である、という事が分かる。

もし、来世、もう一度、人趣に来るのであれば、臨終の時、あなたは、赤い羊水に包まれている様子を見るであろう。

たとえあなたが、羊水が何であるか知らず、また羊水について考えた事がなくても、あなたはこのような情景をみる。これが趣相である。

 無明、愛、行

趣相が現起(現象)する時、我々の身・心の内に、無明と愛があるが故に、「無明」(avijjā)が、この趣の「有」(bhava)の過失(=欠点)を覆い隠し、「愛」(tanhā)が、我々をして、趣有(gatibhava)の方向へと、向かわせる。

「福行」と「非福行」の思心所は、行(sankhāra)の方式で存在し、我々をして、もう一つ別の一期の、新しい生命に向かわせる。

たとえ臨死業が現起(現象)した所の、次の一期の生命が卑賤な境であるとしても、無明が覆い隠す事が原因で、我々には、一切の過失が見えない。

母胎の羊水を見ると、我々は厭離しないだけでなく、母胎に対して「愛結」を生じさせてしまうーーすなわち、生命を求めてしまうのである(bhavanikanti)。

今や、三悪堕に落ちそうな人であっても、無明が覆い隠す事が原因で、彼は地獄に対して、まったく恐怖を感じる事が無い。

たとえ彼が、それは地獄であると知ったとしても、彼はそれを愛し、それに執着する。

というのも、彼の今生の身殻は、もはや使えなくなっており、その「何一つ持たない状況」に、彼はとても耐え難く、適応できない為、故に、三悪趣であろうとも、愛してやまず、手放す事がでない。

これが「無明によって覆い隠され、愛結に結縛される」である。

臨終の時は、ちょうど水に溺れるが如くであって、溺水しているその最中、身体にどのようなよい状態、または悪い状態が出ていようとも、藁を見ればそれに掴まってしまうのと同じであって、それが人食いサメであっても、同じように捉まえてしまうのである。

というのも、彼にとって、溺水しているのは疑いもない事実で、何かに掴まれば、多少とも生存の可能性があるからである。

臨終の時、よい境、悪い境に関わらず、彼は良しあしの区別なく、境に従って進む。それが悪趣の境であると分かっていても、やはりそれを愛し、それに執着するのである。

衆生が、臨終のときの所縁境に執着する時、無明のよって覆い隠される。

結果、愛結に繋がれて、もう一つ別の一期の、新しい生命に向かう。

過去の福行、非福行等の業力は、果報が熟するのを促すような態勢に入る。

臨終の時、我々の心は、心路の遍歴過程の順序に従って生起するが、この時の心所依所(hadayavattu)(注1)の力は非常に弱く、故に、死心が生起する前、速行心は5回しか活動せず、その次は、彼所縁(tadā)になる。

その後に来るのは死心(suti)で、一生はこれにて終結する。

死心は、この一生における最後の一個の心で、死心の後では、いわゆる業力の行が、再び結生するよう促し、そのため、また別の一期の生命が始まるのである。

(注1)心所依処:心臓の下端にあり、その特徴は、意界と意識界に依存場所または支えを提供する事。

作用は、二界の依処(=依存場所)となる事。

現起(現象)は、この二界を支える事。

近因は、同一の一粒の色聚の中の業生四大種である。

(4-4につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>