<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
五趣
地獄趣(nirayagati)
餓鬼趣(petagati)
畜生趣(tiracchānagati)
人趣(manussagati)
梵・天趣(devogati)
今、我々は五趣が何であるかを、理解できたであろうか?
もし、仏陀がこの世に現れなかったならば、我々とは言わず、祖師大徳の方々でさえも、「五趣」とはなんであるかを知ることは、できなかったのである。
「趣」とは、行く場所、往生する処である。
世間は、地獄、餓鬼、畜生、人、天等の五つの場所がある。
解脱してない人は、死後、業力に従って、五趣の中から、どれか一つの趣に生まれ変わる。
五趣の中の、餓鬼趣は阿修羅を含むが、阿修羅は体積が非常に大きく、彼の瞋恚心は非常に重い。故に、彼は餓鬼より苦痛が大きい。
餓鬼趣(petagati)
北丙法師は、非常に優秀な法師である。
彼は法を善く説く以外に、種々の業処にも詳しく、よくお墓に行って、説法をしたり、座禅・瞑想する。
彼がお墓にいる時、鬼道の衆生は、傍らに来て説法を聞く者、馬鹿騒ぎしに来る者もいるが、ある者は、近くで読経したりする。
北丙法師は、遠くから聞こえて来る読経の声を聞くことができるが、それは、鬼(=幽霊)達が法師と共に、読経しているのである。
彼らは生前、みな、寺院の法師だったのである!
彼の座席の傍に、蟻の巣のような小さな穴がある。
穴は非常に小さいものの、二人の巨大な鬼が出てきて、一人は南に、一人は北へ走って行った。時間が来ると、二人はまた、元の穴に戻ってきた。
衆生とは、なんとまぁ、不思議な事か?
輪廻の中では、色々な生命が存在し、色々な生存形式が存在している。
これらは皆、臨終のときの心の気がかりによって(+生じているの)である。
臨終の時、もし、家族、友人の事を気に掛けると、みな、鬼道の衆生になり、元の場所に居続けて、そこを離れたがらない。
もし、気がかりが無いのであれば、業力に牽引されて、流転する。
この五趣のうち、鬼趣に生まれるのはまだいい方である。というのも、鬼趣から、人趣に転生するのは、難しくないからである。
人が死ぬとき、泣いてはいけない。
もし超度したいのであれば、こう言うのがよい:
「お父さん!お母さん!または誰々さん!
私はあなたの為に供養を修しています。功徳を造(ナ)しています」と。
その後に、功徳を彼に回向してあげれば、彼は、人趣に転じることができる。
これは非常に簡単に出来る。
ただ、重要な事は、供養を受ける者が、清浄なる戒行を具足している必要があることである。
(中略)
(4-5につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>