<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
正覚者等、所説業本、唯従基準、作如是説。
いわゆる業とは、根本の根を、指して言う。
仏陀は、「業」は、我々自身に属する財産だ、と言う。
その意味はすなわち、我々は「業」を資本としている、という事である。
「業」は、羅望樹のように、もし、羅望樹の種子がないならば、羅望樹が芽を出すこともない(+のと同じである)。
羅望樹は、羅望樹の種を主因としているが、しかし、単一の種があるだけでは、羅望樹が、芽を出すことはできない。
種があっても、種を蒔かねば発芽せず、肥料を与え、肥沃な土地を準備し、充分な陽光、空気、水分などの加行助縁もまた、必要である事も、言を待たない。
多くの因と縁が具足されて初めて、羅望樹は芽を出すことができる;
もし、成長途中の羅望樹を、ダメにしてしまおうとするならば、それは非常に簡単である。
総じて、羅望樹に発芽させて、また、成長させる為には、羅望樹に必要な主因の上に、種々の加行精進の因縁条件を加えて初めて、羅望樹は、大きく育ち、葉を茂らせることができる。
羅望樹は、いつでも夭折してしまう可能性を持っている。我々の身体の樹もまた同じで、業が種子となって、身体は初めて成長することができる。
しかし、身体は無常であり、何時如何なる時も、想定外の事柄が、発生する可能性があるのである。
もし、しっかりと色身を保護しないのであれば、健康的に成長する事は出来ず、それはダメにされた羅望樹の枝葉が枯れるのと同じ様に、寿命が尽きる前に、夭折して死亡してしまうのである。
(4-11につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājem>。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>